語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】黛まどか、俳句の力、携帯メルマガからフランス派遣まで

2010年04月06日 | 詩歌
 「俳句」2010年4月号に『その瞬間 創作の現場ひらめきの時』刊行記念ということで、黛まどかがインタビューされている。以下、要旨。

 俳句を始めたきっかけは、杉田久女との出会いだ。そこから俳句そのものへ関心が移った。たとえば、田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる・・・・』のタイトルになっている「花衣ぬぐやまつわる紐いろいろ」は、心の叫びなのに美しい景に昇華しているところがすばらしい。嘆きで終わらせないところが俳句のひとつの魅力だ。
 この頃、父・黛執の句集を読み、「つばめの空さらに高きに父の空」が目にとまった。祖父の葬儀に悲しみを見せなかった父の、涙より深い悲しみ、二度と会えないところに行ってしまった、という喪失感を余白に見た気がした。

 俳人として立つ決意の句は、1994年冬の「冬波の人遠ざける青さかな」(句集『花ごろも』)。8年間所属した結社「河」を辞め、「月刊ヘップバーン」を立ちあげようと悩んでいた頃の句である。
 黛まどかは、よく悩むタイプなのだが、最終的には超ポジティブ・シンキングになるらしい。親しかった鈴木真砂女から、「私たち、太平洋を見て育ったからね」とよく言われた。海の向こうには自分の知らない素敵なものがある、という明るいイメージがある。四季をつうじて海を見るのが好きだ。

 『その瞬間』は、携帯メールマガジン「俳句でエール!」に連載したもの。2006年12月26日に初配信。2008年から「週刊まどか歳時記」として毎週日曜日に配信。今、会員は1万人。
 言葉によるいじめがあとを絶たないが、言葉はいいほうに働く力もある。それをもっと発信していきたい、というのが「俳句でエール!」を始めた動機。自分自身が励まされた古今東西の俳句を淡々と送りつづけた。
 自殺願望の人からメールが入ったこともある。どんなに沢山の言葉をかけても、心の向きを変えるのは自分自身でしかない。それには「気づき」が必要なのだが、どうやって気づいてもらうか。俳句は短いから直接励ますことはないが、その中に「気づき」を呼びさます力がある。
 俳句を通じて、なくしていた会話が始まった団塊世代の夫婦もいる。「熱燗の夫にも捨てし夢あらむ」(西村和子)がきっかけで。
 
 メルマガを開始して1年半後、「あなたからの一句」を始めた。題詠が1か月間続く。
 発見が増えた、などの声があった。

 1999年、北スペインのサンチャゴ巡礼をはたした。約800キロ、徒歩で踏破した。重い荷物に足が前にでない。そんなとき思いだしたのは『奥の細道』だった。300年という時の隔たりを超え、『奥の細道』を追体験した。
 旅にでると、日常の自分から脱却できる。遠くから自分を見つめなおし、日常でついた贅肉を落とすことができる。これが旅の魅力だ。パウロ・コエーリョは、旅の効用を三つあげている。荷物を減らすこと、言葉を減らすこと、人を信じる力をとり戻すこと。

 この4月から1年間、文化庁の派遣事業でパリへ赴く。EU理事会議長からも派遣要請が来ている。フランスの大学日本語科をはじめ、周辺諸国に俳句を普及したい。俳句を通じて、余白を読みとること、自然と一体化すること、といった日本文化のすばらしさを発信したい。さらに、環境問題や紛争などの解決へのヒントが俳句に託されている、ということまで伝えたい。

 【注】
 2010年4月15日付け朝日新聞によれば、14日、文化庁は、文化交流使に黛まどか(47)を指名した。期間は4月下旬から約1年間。フランスなどで、俳句について講演や実作指導をおこなう。所要経費約1200万円は同庁が負担する。

【参考】黛まどか「その瞬間 創作の現場ひらめきの時」刊行記念特別インタビュー (「俳句」2010年4月号、角川書店、所収)
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書評:『別人「群ようこ」ができるまで』

2010年04月06日 | エッセイ
 無類の読書家にして、軽妙な筆致のエッセイと小説で知られるの群ようこの出発点が回想される。

 著者、本名木原ひろみは、そもそも普通の会社勤めに縁のない人物だった。重いみこしをあげて就職活動をはじめた時期は、はっきりとは書かれていないが、どうやら大学卒業のまぎわの2月だったらしい。学生時代は本を読むばかりが能でしかなく、スカートをはくのは4年ぶり。
 時代は、低成長期に入った1970年代後半。応募した広告会社に一発で受かったのは奇跡といわねばならない。
 著者の才能がはやくも見出されたのであろうか。
 とんでもない。
 会社自体が妙な会社なのであった。定刻に退社できたのは出勤初日だけ。くる日もくる日も夜の10時、11時まで残業が続く。仕事が片づいて、午後7時に退社しようとすると、上司から憎々しげに挨拶を送られる。その上司のミスの後始末のため、真夜中までミス・プリントの文字をカッターで削ったりもした。疲労が蓄積し、休日に休養しても癒されない。ついにプッツンして5か月で辞めた。
 爾来、20代に転職すること6回。音楽雑誌の会社は、社長に胸をさわられかけて辞めた。社内報を編集している会社は、領収書に母親の名が勝手に使われているのを見つけて辞めた。かくて、彼女は「転職のプロ」となる。会社在籍最短記録は2日(某大手メーカーで上司とケンカして辞めた)、最長記録は5年半(本の雑誌社)である。

 本の雑誌社の給料は安く、学歴を活かせない事務の仕事だったが、性に合っていたらしい。
 門前の小僧で原稿依頼がはいるようになり、注文が増えるにつれて本業と両立しがたくなって辞めた。これがまあ終の住処か雪五尺、ならぬついの転職である。

 内田百が芸術院会員に推挙され、これを辞退した時、なぜ辞退したのかと問われて、「嫌だからいやなんだ」と答えた。理由にならない理由だが、ひとは必ずしも合理的な理由によって行動するわけではない。たいていの人は、自分の行動を正当化し、なんとか説明をつけるものだが、百は自分の行動を説明する気はさらさらなかったらしい。世間の常識からはみだして恬然としていた。かかる人物を世間は偏屈者と呼ぶ。当然ビンボーと仲良しで、借金王となった。よくしたもので、偏屈者を愛する人も少なくなかった。好きだから好きで汽車にのって旅立つ百に随行したヒマラヤ山系君なぞ、その最たるものである。

 群ようこも、一度は世間なみに好きでもない企業に就職したものの、以後は嫌だから嫌で退職し、転職し、ビンボーしながら本の雑誌社に勤めつづけ、好きだから好きで無数の本を読破しているうちにプロの書き手、作家に身を転じた。芸は身を助ける。芸の、たぶん番外編くらいの読書であっても。
 群ようこは、百ほど頑なではないし、衒いもない。百と同じくユーモラスだが、百のいくぶん不気味な調子はなくて、軽い。
 時代がちがうのだ。
 明治生まれの内田百は、嫌だから嫌をとおすには、身構える必要があった。彼のユーモアがいくぶん窮屈な印象を与えるのはそのせいである。
 別人「群ようこ」が生まれたのは、高度成長の余塵がまだ残るころで、百ほど構える必要がないのどかな時代であった。
 
□群ようこ『別人「群ようこ」ができるまで』(文藝春秋社、1985。後に文春文庫、1988)
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