語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『揺れるユダヤ人国家 -ポスト・シオニズム-』

2010年04月29日 | 社会
 二人寄れば三つの政党ができる、とユダヤ人の議論好きが揶揄される。
 本書は、イスラエルの中で拮抗し合う集団の複雑なモザイク模様を簡明に分析した。ユダヤ人社会に焦点を絞ったために非ユダヤ人にはほとんど言及されていないが、国民の2割近くを占めるパレスチナ・アラブ人に対する理解もゆきとどいている。

 20世紀末のイスラエルには主な対立軸が三つある、と著者はいう。
 第一に、世俗的(非宗教的)か宗教的か。一方に冠婚葬祭の時にしか宗教と関わらない人々がいて、この対極に戒律などユダヤ教的価値体系を社会で実践、実現しようとしている超正統派(ハレディーム)がいる。
 第二に、アジア・アフリカ系かヨーロッパ系か。前者は、意識の多様化によってサブ・エスニック・グループが形成されているため、関係がより複雑になっている。
 第三に、第三次中東戦争による占領地区を返還するか否か。返還による和平推進を支持するグループがある一方、返還に断固反対する大イスラエル主義勢力がある。後者は、ヨルダン川西岸(「約束の地」の核心的部分)を死守せんとする宗教的ナショナリズムと重なる。
 さらに・・・・と著者は続けて、ほぼ次のように言う。「産業構造の転換に伴い、ベンチャー・ビジネスで巨万の富を築いた者がいる一方、貧困のうちに反エリート的な意識を強めている層も増大している。生活様式のグローバル化、アメリカ化は社会で均等に起きているわけではなく、価値観の対立や社会的な摩擦が生じている」

 19世紀に発生したシオニズムは、宗教的共同体たるユダヤ教徒を政治的共同体たるユダヤ民族に意識転換し、自分たちの国家建設をめざしたイデオロギーであり運動であった。建国後50有余年をへた現在、イスラエルは経済的に繁栄し、世界の半数のユダヤ人がこの国に集中している。シオニズムの目標は達成された、とポスト・シオニズム現象があらわれている。
 他方、政治的シオニズムとは別に、思想的・精神的側面を重視したシオニズムも運動の初期から存在した。こちらがめざす国家は、普通の民族国家ではなく、選民思想と表裏をなす「特殊な国」である。
 シオニズムにおける民族優位と宗教優位の矛盾は、建国当初から存在していた。先住のパレスチナ人及び周囲のアラブ諸国といかに折り合いをつけるかという政治的課題が一方にあり、神とユダヤ教徒と「約束の地」という神学的命題が他方にあった。
 ホロコーストの悲劇から3年後、1948年にイスラエルは独立した。そして、パレスチナ難民を生んだ。当然ながら周囲のアラブ諸国は、新規参入者を地中海へ追い落とそうとした。世界百か国からの移民たちは、たび重なる戦さによってしのいだ。そして今や、千葉県程度の人口590万人(1997年)の小国としては強大な軍事力(現役の兵士17万人余、予備役43万人)を有するに至る。
 しかし、戦さは当然ながら社会・経済の機能を麻痺させる。平時でも、軍事予算は国家財政を圧迫する。加えて、占領地区における抵抗運動(インティファーダ)の抑圧やレバノン侵攻は、個々の兵士の、ひいては国家のモラルを低下させた。

 1993年、ワシントンで宿敵アラファトPLO議長と握手をかわしたイツハク・ラビン首相(当時)は、軍歴が長く、国防軍の元参謀総長でもあった。さればこそ、力による対決の限界を熟知していたにちがいない。
 そのラビンは、暗殺された。大イスラエル主義者イガール・アミール青年が、宗教的信条に基づいて銃の引き金を引いたのである。
 西岸地区及びガザ地区は1996年にパレスチナ自治区となったが、入植運動はイスラエルにおける「西部開拓」 とする運動は続いている。当然、パレスチナ自治区との摩擦も。人間の福祉は妥協のうえに成立するはずだが、神と神に忠実な人間には妥協がないらしい。
 21世紀のイスラエル国家内部には、対立軸が依然として健在である。

□立山良司『揺れるユダヤ人国家 -ポスト・シオニズム-』(文春新書、2000)
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【旅】イスラエル ~東エルサレム、1992年~

2010年04月29日 | □旅
 紺碧の空にはひとひらの雲もない。
 オリーブの丘から見はるかすエルサレムは、くすんだ岩壁の家居が乱雑に建ち並んでいる。さればこそ、金色に光る屋根がめだつ。岩のドームすなわちオマール・モスクである。このあたりが旧市街だ。
 エルサレムは、ムスリムにとってメッカ、メディナにつぐ第三の聖地である。

 二重の検問をとおって神殿の丘へのぼった。旧市街でもっとも高い地区である。検問では荷をほどき、なかみを見せねばならない。武器のチェックだ。しかし、さほど厳重ではない。
 後年思うに、私たちの訪れた年は、現代イスラエル史において珍しく平穏な時期だったのだ。湾岸戦争は前年に終結し、6月にはイツハク・ラビン率いる労働党が政権を奪取した。労働党は、政権につく前からPLOと秘密交渉を行っており、翌年9月、オスロ合意にいたる。

 ホテルのような外観のエル・アクサ・モスクをすぎ、ドームの前に立った。階段の下に、手足を清める泉があった。あまり衛生的でない。
 青いタイルの外壁は美しい。内部のモザイク文様も美しい。
 ミニ・スカートの女性は出入り拒否に合う。よくしたもので、薄いブルーの腰巻きが貸出されるから、参拝の間だけまとっておけばよい。同行者が、さっそくまとう。
 裸足にならねば入れない。これもあまり衛生的でない。千年間余の間に無数の足が踏みしめた床なのだ。
 ドームの中は、中央にどでかい岩が鎮座しているだけであった。ここでマホメットは天使ガブリエルに導かれつつ天馬に乗って昇天し、アラーの啓示を受けて地上へ戻った、とコーランは伝えているらしい。天使の翼の羽根ひとひらも落ちていなかったが、岩の上部にはマホメットの足跡や天使ガブリエルの手形が残っている(はずである)。が、見えない。柵によじのぼって確かめてみたが、やはり見えない。見えたのは、抗議の声をあげて近寄ってくる番人だけであった。ガイドがなだめている。
 この岩は、アブラハムがイサクを犠牲にしかけた場所、とも伝えられる。エゼキエルの神殿がここに建っていた。ユダヤ教徒にとっても聖地なのだ。

 ドームを後にし、神殿の丘から降り、イスラム教徒地区をぬけていく。旧市街は、イスラム教徒地区、キリスト教徒地区、ユダヤ教徒地区、アルメニア人地区に截然と分かれている。廃車寸前に見えるポンコツ車が、段差のある狭い道を疾駆していく。
 とある店で、冷えたミネラル・ウォーターで喉をうるおす。屋内のあらゆるところに、隙間なく十字架や聖母像が架かっている。

 戸口をでるとアラブ人が絵葉書を手に寄ってきた。
 狭い石畳の道をゆっくり上がっていくと、パンを板にのせた少年が背後から近づき、追い越していく。ところどころで、アラブの老人が西瓜やナツメヤシを売っている。蝿がたかっている。これまた衛生的でない。
 通りは暗く、壁は汚く、いささか荒廃した印象を与える。シャミル前政権の、陰に陽にアラブ人を追いだそうとした政策の賜物である。落書きが多数目につく。店はいずれも閉まっていて淋しい。今日は休日であるよし。ガイドいわく、「いつもはにぎやかなんですけれどね」

 それと指摘された時には、すでにヴィア・ドロローサにはいりこんでいた。ピラト官邸からゴルゴダの丘にいたる「悲しみの道」である。「道」の14か所(留/ステーション)のそれぞれに、事績が記されている。
 第3留、扉の上に十字架の重みに耐えかねたイエスのレリーフがある。「ここがイエスが最初にたおれた場所です」とガイド。
 脳裡にバイブルの一行が浮かび上がる。二千年前に、目の前のここで倒れた男。ふいに時間が停止する、歴史の闇の中から死者がよみがえる・・・・そんな異様な感覚がおそってきた。

 ゴルゴダの丘は、いまは聖墳墓教会の一部となっている。聖墳墓教会は、4世紀に建立されて以来、何度も破壊されては再建された。私たちが目のあたりにするのは十字軍が建てたものである。
 城塞のそれのような門をくぐり、入り口のすぐ右手の急な階段をのぼると、そこにかつてのゴルゴダの丘がある。祭壇が十字架が立てられたとされる場所、第11留である。
 祭壇はギリシア正教の様式である。聖墳墓教会はローマン・カソリック、ギリシア正教、コプト、その他の各派が共同で管理している。
 階下へくだると、遺体を安置した岩だな、墓がある。冷ややかな風が首のあたりをとおりすぎる。死とは、かかる暗い地底へ帰ることか。いや、私たちは火葬し、灰もたましいも天へのぼると信じてきた民族だ。

 聖墳墓教会をでて、ふたたびイスラム教徒地区を通り抜けると、ユダヤ教徒地区へはいる。とたんに家居が立派になる。あらためてイスラム教徒地区の街なみの荒廃が感じられる。
 華麗な店が並ぶカルドを通りぬける。
 第三次中東戦争で爆破された家屋を改築中に、イエスの時代の遺跡が発見された。今ではそれが博物館になっている。むきだしの石の壁。穴蔵のような狭い部屋。浅い浴槽。家居をしきる高い壁。こうした堅固な住居にすまう者が堅固な思想をうみだす。

 博物館を出ると、広大な壁の下に人々が群れていた。この暑気のなかで正装した黒服の人たちがいる。
 ソロモンが建て、ヘロデが拡張再建した第二神殿の西壁、いわゆる嘆きの壁である。岩のドームが背後に見える。
 壁のところどころに草が生えている。草からしたたる露が涙のように見えるから嘆きの壁と呼ばれるのだが、ただいまの草に生色はない。摂氏42度の猛暑である。

 旧市街をわずか数時間歩くだけで、世界の三大宗教の聖地をひとめぐりできる。厳格な一神教という点で共通するが、三は一に統一されていない。今後も、まず統一はされないだろう。
 目には見えないそれぞれの神が勝手に、乾いた大地に灼熱のようにそそり立つ。
 この街では、そんな感覚がつきまとう。
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