語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『映画の中のマザーグース』

2010年04月04日 | 詩歌
 『マザーグース』は、むかしも今も英米の民の心にしっかり根をおろしているらしい。されば、大衆芸術である映画との親和性は高い。『マザーグース』と何らかの関わりのある映画は、本書巻末の一覧表によれば、すくなくとも200本を超える。
 本書は、『マザーグース』から86編(短詩は全編、長詩は一部)を拾いだし、映画で引用される場面を紹介しつつ解説する。引用は、もじり乃至パロディを含む。解説は、『マザーグース』を手がかりに場面の微妙なニュアンスを浮き彫りにし、また、映画の主題の深層を掘り起こす。

 たとえば、ミッキー・ローク主演の『死にゆく者の祈り』(英、1987年)。悪漢ビリーが、“Three blind mice”の唄を歌いながら、手探りで逃げようとする盲目の少女を追いつめる。『マザーグース』の“Three blind mice”は、「Three blind mice,see how they run!/They all run after the farmer's wife,/Who cut off their tails with a carving knife,/Did you ever see such a thing in your life,/As three blind mice?」なのだが、映画では、次のように変奏される。そして、著者は解説していう、「ここでは、盲目の少女を盲目のねずみにたとえている。彼女を怖がらせようと、わざとゆっくりとこの唄を歌っている。この映画も、マザーグースを使って恐怖感を盛り上げている例である」

  Three blind mice,three blind mice,
  Don't shut the door on me.
  Oh,it's dark.Blind man's bluff.
  Where are you? My little mouse.

 たとえば、また、『大統領の陰謀』(米、1976年)の原題“All the President's Men”は、塀から落ちる卵の紳士を歌った“Humpty Dumpty”の一行(“And all the king's men”)を下敷きにしていると解説し、「大統領の側近がどれだけもみ消し工作をしたところで失脚したニクソンを元にもどせない、というニュアンスをこれだけの引用で鮮やかに描きだしている」
 これは、原作があまりにも名高いせいで、そして日本でも翻訳がよく読まれたから、さほど目新しい知見ではない。しかし、ショーン・ペン主演でリメイクされた『オール・ザ・キングスメン』(米、2006年)を見るにつけ、そして最初の『オール・ザ・キングスメン』(米、1949年)の記憶をよみがえらせるにつけ、権力は腐敗するという鉄則はむかしも今も変わらない、といった思いに駆られる。
 事は英米の政治家にかぎらない。わが国でも事情は同じだ。

 本書のねらいは英語教育にあるらしい。訳文のみならず語釈を付するあたりにその配慮が濃厚だし、10編余のコラムのうち3編は教科書に引用された『マザーグース』について、また、『マザーグース』の授業での活かし方について説く。たしかに、中・高校生の英語の教材ないし副読本として好適だ。
 しかし、著者の意図が奈辺にあろうとも、おとなも本書を楽しめる。詩を愛する者は吟じてよいし、歴史好きは詩の歴史的背景に目を向けてよい。本文やコラムで日本のわらべ歌と比較されているから文化人類学的接近もできる。ときには数ページにわたるものの、大部分は見開き2ページで完結しているから、読みやすい。図版豊富だから、眺めるだけでも楽しい。
 小さな瑕疵というか、読者の欲ばった注文というか、関連する場面の写真も添付してあると親切だ。いや、これは望蜀というものか。

□鳥山淳子『映画の中のマザーグース』(スクリーン出版、1996)
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書評:『トム・ソーヤーの冒険』

2010年04月04日 | 小説・戯曲
 トムは、活力あふれる少年である。悪戯はまいどのことで、くんずほぐれつの喧嘩は日常茶飯事。遊びに熱心だから当然勉強はできないのに、才覚をはたらかせて成績優秀者の表彰を受けたりする。たちまちボロをだして大恥をかくのだけれども。
 幼い恋をして、痴話喧嘩もする。しかし、彼女が失策をおかして窮地に立つと、自ら進みでて彼女の身代わりに教師の鞭を引き受ける。
 親代わりのポリー伯母さんから理不尽な叱責を受けると、友人をかたらってサッサと家出したりする。失踪した子どもたちが見つからないので、村民が彼らの葬儀を行っている最中に姿をあらわし、涙をたちまち大いなる歓喜にかえてしまう茶目っけもある。
 茶目気は愛すべきだが、ポリー伯母さんもたいへんだ。
 殺人を目撃して恐怖にふるえあがるが、誤認逮捕された容疑者を救うために敢然として証人として名乗り出る。なかなかの勇気だ。
 この殺人は、トムとハックルベリィ・フィンが宝探しに熱中している最中に生じた事件であった。宝探しの成果は・・・・未読の読者のためには言わぬが華である。

 子どもの心を生き生きとえがいて、他に比肩する作品は、ないとは言わないが、本書を凌駕する作品は稀れだろう。
 児童心理学の素材になりそうなエピソードが満載されている。
 たとえば、ロビン・フッドほか本で知った活劇を模倣するゴッゴ遊びは、少年が歴史を受け継ぎ、大人の仲間入りをする準備作業である。

 子どもの心をつうじて、おとなの心も洞察する。げにも、子どもはおとなの先生である。たとえば、動機づけの心理学。
 お仕置きで苦行を命じられると、苦行どころか、その逆に滅多なことではやれはしない楽しみだと芝居して他の子どもたちの関心をひき、塀のペンキ塗りをさせてやる。ペンキ塗りをさせてやる代わりに、彼らのささやかな財産を巻きあげて。
 この時、トムは「周囲に起こった変化を、あれこれ思いめぐらし」ただけだが、「大人でも子どもでも、あるものをほしがらせようと思ったら、それを容易に手に入れにくいと思わせさえすればいい」「仕事というものは人がやらなければならないものであり、遊びとは人がやらなくてもかまわないものだ」と著者は解説するのである。

 要するに、本書は発達心理学の素材の宝庫である。
 そして、本書は冒険小説の精髄である。世にあまたとある冒険小説は、本書をすこし巧緻にしたか、もしくは大がかりにしたものにすぎない。

  21世紀に生きる者としては、先住民に対する偏見が気になる。
 ある登場人物はいう。「それで、すっかりわかった。おまえが、耳をそぐとか鼻をたち割るとか言ったとき、わしは、おまえが、いいかげんなほらを吹いているんだと思っていた--白人は、そういう復讐をしないものだからね--だが、インディアンなら、やりかねない。インディアンとなると話が別だ」
 だが、これはあくまでも、本(原著は1876年刊)の中の一登場人物の意見である。 
 インディアンに対する著者の見解は述べられていない。しかし、つぎのくだりから、著者マーク・トゥエンの考えを推定することはできるだろう。
 物語の終わりに、トムはインディアン・ジョーに対する見方を変える。
 インディアン・ジョーは洞窟に閉じこめられ、飢えに苦しんでコウモリを食べ、ロウソクを食らい、なお餓死した。殺人の罪を他人になすりつけて平然たるインディアン・ジョーだったが、その末路にトムは「強く胸をうたれた」
 インディアン・ジョーの末路は、米国の、すくなからぬ先住民の末路を象徴している。

□マーク・トゥエン(大久保康雄訳)『トム・ソーヤーの冒険』(新潮文庫、1953、1976改版)
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【言葉】食の安全、学者の責任

2010年04月04日 | 医療・保健・福祉・介護
 日本の環境問題のひとつの典型を、天竜川の問題と築地移転問題に見ることが出来る。それは・・・・始めるのは政治家、官僚、地方自治体という行政であり、必ず巨大な土木工事を伴い、ゼネコンなどの事業者が関わる。したがって常に利権が絡む。
 そしてそこに大きな役割を果たすのが学者たちだ。官僚、地方自治体などは立てた計画を検討する委員会のようなものを作る。委員となる学者は、その土木工事に問題がないという理論的なお墨付きを与える。天竜川ではダムが環境を破壊し、洪水にも逆効果であることがわかっているのにダムの有効性を説いてきた。豊州でも『あれほど甚だしく汚染された土壌の上に他のものならともかく生鮮食品を扱う市場は建設するべきではない』という意見は学者の良心から出てこなかったのか。今まで行政とゼネコンとの利権は議論されたが、学者の役割は見過ごされてきた。
 しかし、常に公共工事の正当性を理論化してきた学者たちの責任は非常に大きいと言える。

【出典】雁屋哲、花咲アキラ・画『美味しんぼ 第104巻 -食と環境問題-』 (小学館ビッグコミックス、2010)
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