語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『木のぼり男爵』

2010年04月22日 | 小説・戯曲
 「われわれの祖先」三部作の第二。
 1767年、主人公コジモ・ピオヴァスコ・デ・ロンドー12歳の時に物語は始まり、コジモ65歳の時に終わる。すなわち、コジモがひとたび樹上で暮らすと決意してから、通りかかった気球の錨の綱に飛び移って海上に消えるまで。

 これは鞏固にして首尾一貫した意志の賛歌である。ひとたび生き方を定めて後は、断固揺るがぬ意志。
 もっとも、実践にはいささかの難儀をともなった。小用のしかたを工夫し、草原のはてへ駆け去っていく恋人に涙し・・・・すべて高貴なものは稀れであるとともに困難である(スピノザ)。

 ところで、小説の舞台はリグリア地方にある架空の自由都市オンブローザだ。ジェノヴァ共和国の保護下にあったが、物語の進行につれてフランス、オーストリア帝国、サルディーニャ=ピエモンテ王国の勢力地図が塗りかわり、男爵一族も小さからぬ影響を受ける。
 コジモは、フランス軍に与してゲリラ活動を行う。コジモの姉の夫は、オーストリア帝国軍の指揮官として出世する。コジモの弟、つまり語り手は、ロンドー男爵家を継承し、大国の勢力の消長の余波を受ける。一族の運命は、一律ではないのだ。

 本書は、時代の政治的縮図のみならず、思想的縮図も用意する。
 読書に憑かれた山賊と出会ったコジモは、自らも読書人となって、ヴォルテール、ルソーからディドロまで、啓蒙思想を読み耽る。生ける『百科全書』となったのだ。

 奇想天外な主人公の生きざまにふさわしく、本書には遊びが随所にしかけられている。
 プルターク『英雄伝』やトルストイ『戦争と平和』の本歌取りがそれだ。

 ひとたびは銃の威力で森から狼を追い払って里人に感謝されたコジモだが、老残の身となると厄介者扱いをされる。
 手を翻せば雲と作り、手を覆せば雨。紛紛たる軽薄、何ぞ数うるを須いん。
 盛唐の詩人は痛烈な皮肉をはなち、コジモは、といえば腐っても鯛、冒頭で紹介したとおり、特異な生涯を自ら颯爽と完結させるのであった。

□イタロ・カルヴィーノ(米川良夫訳)『木のぼり男爵』(『新しい世界の文学16』、白水社、1964)
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書評:『緊急深夜版』

2010年04月22日 | ミステリー・SF
 発行部数50万部のコール・ブリティン紙の記者サム・ターレルのもとに、匿名の密告が入った。リチャード・コードウェルは、やくざの情婦と交渉がある、という情報であった。
 コードウェルは、4期にわたる現市長一派の腐敗を衝き、市政改革を錦の旗印に決起した弁護士だ。
 怪訝な思いで取材していくうちに、その情婦の殺害容疑でコードウェルが逮捕された。

 事件発生の頃に付近を通りかかったコグラン巡査は、現場から逃走した怪しい人物を目撃したが、この報告を上司のスタンコ警視は握りつぶした。
 サムは信頼するカーシュ編集局長に相談し、コグラン巡査と接触を図る。
 しかし、コグラン巡査は、証言を約した直後、亡くなった。コグラン巡査が死去したホテルを管轄する警察署は、他殺の疑いを抱くが、なぜかスタンコ警視たちは強引かつ一方的に自殺と宣言する。

 サムは、別の証人コニー・ブラッカーから事件の全貌を明かにする証言を得て、緊急深夜版の原稿を書きおろした。
 しかし、コニーは何者かの手で連れ去られてしまった。サムは茫然とするが、社内におけるある電話のやりとりが耳に入って謎が氷解する。
 コニーを救出するべく、そしてコードウェルの冤罪をはらすべく、切迫した状況のなかでサムは行動に移った・・・・。

  *

 ウィリアム・アイリッシュ『暁の死線』からマイクル・クライトン『タイムライン』まで、残された時間が刻々減っていくところに生じる緊迫感がサスペンスをうむ。本書にもこうしたサスペンスの要素があるが、主眼はあくまで、権力の妨害をはねのけて事実をあばいていく点にある。本書は、正統的なミステリーだ。
 ダシール・ハメット『血の収穫』のコンチネンタル・オプは、隠された事実をあばくと同時に、腐りきった町の浄化を実力行使した。
 本書の主人公は新聞記者だから、最終的な目標は直接行動ではなく、事実を大衆とともに広く共有する点にある。事実を知った大衆は、しかるべき行動に移るであろう、という期待がある。

 わが三好徹も探偵する新聞記者を好んで描いたが、三好作品の主人公は、必ずしも常には、真実を大衆とともに広く共有しない。たとえば天使シリーズの場合、主人公は、事実を積極的には隠さないが、積極的には伝えないことで、結果として真実について沈黙することがしばしばある。事実は、真実の一部にすぎない。
 本書の原著は1957年に刊行された。マッカーシズムが一応終焉を迎えたのは1954年の暮だ。
 新聞の使命、多数の正義を愚直に信じる主人公に、ちょっと感動を覚えないでもない。

□ウィリアム・P・マッギヴァーン(井上一夫訳)『緊急深夜版』(ハヤカワ文庫、1981)
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