語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】原発>メディアで異変、脱原発世界会議、ふくしま集団疎開裁判

2012年02月17日 | 震災・原発事故
(1)価値の転倒
 メディアの世界で異変が起きている。
 (a)NHK・・・・原発の爆発直後から「放射能汚染地図づくり」シリーズを放送し、陸と海にホットスポットがあることをいち早く報じた。政府の無策を先取りして批判した。これまでのテレビでは考えにくい手法だ。
 (b)朝日新聞・・・・①事故の収束のめどが立っていないなか、「プロメテウスの罠」シリーズで、関係者の生々しい証言をほぼ同時進行で伝え始めた。この種の記事は、事故発生から何年かへて書かれるのが通例だ。②「原発とメディア」では、原発報道の在り方を検証するために、先輩記者も俎上にのせている。身内の批判をもっともしたがらないマスコミとしては、「戦争と新聞」に連なる試みだ。
 インターネットの匿名性と双方向性に対抗する組織ジャーナリズムには、匿名性を捨てる覚悟が求められる。(a)(b)は、いずれも登場人物・制作者の署名性を賭金に、社会的リスクを負おうとしている。これこそスクープの本質であり、署名はあくまで将来にわたる責任を明記する行為だ。
 福島原発周辺の「グレーゾーン」の住民は、出るべきか残るべきか、猶予のない選択を迫られている。その決断にあたり、マスメディアにもソーシャルメディアにも区別なく情報の質を求められているのだ。価値の転倒が起こるのは、当然のことだ。

(2)付随的損傷
 今回の原発事故は、決して「想定外」の偶然ではなく、戦後の歴史を弄んできた者たちが引き起こした必然だ。このことを、どのメディアもはっきりさせるところから始まらなければならない。
 その証拠となる事実をどれだけ集められるか、がジャーナリズムに問われる。
 依拠すべき基準は、無差別な放射線を浴びた原発周辺の住民、わけても子どもや妊産婦など社会的弱者の救済だ。彼らは、大きな災難の付随的損傷( collateral damage )を受けている。「巻き添え」を食っている。
 世界もまた、福島第一原発から出た放射能の巻き添えを食っている、と感じ始めている。1月14、15日、パシフィコ横浜で、「脱原発世界会議」が開催され、20ヵ国以上、1,000人以上が参加した。マスコミは、「原子力村」構成員と袂を分かたなければ報道主体たりえないことが明白になった。しかし、大手新聞、テレビともども、世界会議開催をニュースとして伝えるのみで、ここで何が提起され、どんなムーブメントが始動しつつあるか、という観点で報じたものはほとんどなかった。これでは、当分の間マスコミは「原子力村」の住民登録を抜くことはできまい。

(3)ソーシャルメディアの挑戦
 Our Planet-TV (通称アワプラ)が、(2)の世界会議を2日間にわたりオープンスタジオと各分科会から USTREAM で精力的に生中継した。
 なかでも興味深かったのは、井戸川克隆・双葉町長の話だ。2つ、直言している。(a)子どもたちを救うためには、バスを借り切ってそのまま永田町に乗りつけ、首相官邸の地下室に籠城したらどうか。<これは、小説のように荒唐無稽だが、現職の町長の口から聞くと妙なリアリティをもって迫ってくる。>(b)原子力安全委員会のメンバーが、企業から金をもらって何が悪い、と開き直ったことに対して、<「彼らは犯罪者であり加害者である」と言明し、そういう人間たちは「自分の目の前から消えてほしい」と吐き捨てたのである。>
 <あまり前例のないこれらの発言は、「脱原発世界会議」という開かれた場の雰囲気と、ソーシャルメディアの新たな位置取りが引き出したものと言えるかもしれない。>

(4)はじめに結論ありき
 野田佳彦・首相が「収束宣言」を出した2011年12月16日、「ふくしま集団疎開裁判」が、福島地裁郡山支部で却下された。それ以前も当日も、朝日新聞やNHKはこの裁判を報じていない。
 前記裁判は、14人の子どもたちが原告だ。郡山市に集団疎開を求めるのは、国が基準とする年間被曝量1mSv以下の条件を満たしていない地域(チェルノブイリ基準では避難指定地区)で通学しているからだ。憲法を根拠に、子どもの権利条約の精神を背景としている。
 しかし、郡山市は「不知」の立場をとり、裁判所は全市3万人の児童を非難させることは困難だ、と判断のハードルをわざわざ高めた上で訴えを却けた。
 原告団は、ただちに控訴。さらに、「世界市民会議」で、2月後半に「世界市民法廷」を開く計画を明らかにした。この市民法廷には米国のノーム・チョムスキーが支援を表明している。
 しかし、この分科会にもマスメディアの姿はなく、画期的な裁判の動きはまだ一般に知られていない。
 メディアは、世論調査では「脱原発」がおよそ70%だ、と伝えながら、自らは「原発廃止」を言い出さず、結果的に国の「なし崩し」政策を支持している。

 以上、神保太郎「メディア批評第51回 (1)「脱原発世界会議」が映すメディアの現在、(2)問われつづける政権交代の意義」(「世界」2012年3月号)のうち「(1)「脱原発世界会議」が映すメディアの現在」に拠る。
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン