語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【心理】不安から生じる視野狭窄/トンネル視野 ~戦争~

2016年02月20日 | 心理


 (1)すでに述べたような選択的聴覚抑制【注】をⅠ型と呼ぶならば、自分が当たったときには聞こえない選択的聴覚抑制はⅡ型だ。
 アフガニスタンで米空軍の誤爆を受けたカナダ人、対戦車ロケット弾(RPG)を被弾した海軍特殊部隊員、パトカーの運転手席側のドアを開けたとき目と鼻の先でブービートラップが爆発するという経験をした警察官・・・・これらの人々は同じことを言う。その爆発音は聞こえなかった、と。ブービートラップで両足を吹き飛ばされた警察官は、直後に携帯電話で通信司令係に電話を入れたとき、耳鳴りはしなくて問題なく話ができた、と言っている。

 (2)先の調査によれば、面接調査を受けた警察官の85%は音が小さく聞こえる経験をしている。
 他方、16%は逆に銃声が大きく聞こえた経験をしている(音の強化)。合わせると101%になるが、一度の銃撃で両方を経験した警察官がいるからだ。

 (3)聴覚のみならず、視覚もまた類似の心理が生じる。
 先の調査によれば、警察官の10人に8人は銃撃戦の際に「トンネル視野」を経験している。これは視野狭窄とも呼ばれるが、銃撃戦などで過大なストレスにさらされると、目の焦点を結ぶ範囲が狭くなって、まるで筒をのぞいているかのように感じるのだ。ある巡査部長は、容疑者がこちらに向かって拳銃を撃ってきたとき、その拳銃をにぎる男の手の、指に嵌った指環しか見えなかった。
 また、あるSAWAT隊員は、短銃身のショットガンで武装した容疑者と格闘したとき、トンネル視野と聴覚抑制の両方を一度に体験した。
 「私たちはふたりとも片手で同じショットガンの銃口をつかみ、片手で同じ引金をつかんでいました。トンネル視野を経験した人はみんな、トイレットペーパーの筒をのぞいているみたいだったと言うけれど、私の場合はソーダのストローをのぞいているみたいでしたよ」
 心拍数が上昇するにつれて、トンネル視野のトンネルはいよいよ狭まり、選択的聴覚抑制の強度も高まる。これを示す事例は少なくない。上記の事例もその一つで、体験談は続く。
 「そうやってショットガンを奪い合っていたとき---ズドーン! その12番口径が、私たちの顔のあいだで火を噴いたんです。目の前で12番口径が火を噴いたんですから、ふつうならこんなにやかましいことはありませんよ。それが心底仰天したんですがね、私にはその音が聞こえなかったんです。あとで耳鳴りがすることもありませんでした」

 (4)トンネル視野は、選択的聴覚抑制その他のさまざまな知覚の歪みと並んで、一般に高レベルの不安に伴って生じる。
 たいていの場合、相手にも同じことが起きている。相手も「ドーナツの穴をのぞくよう」にこちらを見ているのだ。
 この視覚の歪みを利用するには、すばやく右か左に一歩よけるとよい。すると、事実上あなたは相手の目の前から消える。あなたを視野にとらえるには、相手はまばたきをし、後ろに下がり、こちらの方向に顔を向けなくてはならない。それに要する1秒間が貴重な優位性をあなたにもたらす。この横移動法は、有効性が証明され、今では広く教えられるようになっている。
 銃撃のあとで物理的に首を左右にふって戦場を眺めると、トンネル視野が緩和されるらしい。たとえ緩和されなくても、首を左右にふれば、他に敵がいないかを確認することができる。
 戦闘のときにどんな現象が起きるか、前もって教えておくと、非常に有意義だ。
 「本書の目標は、できれば初回の戦闘を経験する前に、戦士たちにこのような心構えをさせることだ。『転ばぬ先の杖』と言うとおり、戦士を戦闘に送り出すときには、できうるかぎり最高の装備をさせ、最大限の情報を与えなくてはならない」

 【注】「【心理】ストレスに伴う聞こえの歪み/選択的聴覚抑制 ~戦争~

□デーブ・グロスマン/ローレン・W・クリステンセン(安原和見訳)『戦争の心理学 -人間における戦闘のメカニズム-』(二見書房、2008)
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 【参考】
【心理】ストレスに伴う聞こえの歪み/選択的聴覚抑制 ~戦争~


【メディア】政治家の「みそぎ」は本末転倒 ~形骸化する謝罪~

2016年02月20日 | 社会
 (1)1月のメディアを
   SMAPの解散騒動
   ベッキー(タレント)の不倫騒動
が席巻した。SMAPはテレビの生放送で、ベッキーは記者会見で、それぞれ謝罪した。
 単なる視聴者が謝罪される理由は、格別見当たらない。直接被害を受けた当事者や関係者がいるならば、じかに面会して謝罪するのが筋だ。
 にもかかわらず、これまでも著名人が私的な不祥事を起こすたびに、公の場で謝罪会見や釈明会見が開かれてきた。

 (2)理由は二つ。
  (a)「区切り」の問題。沈黙を続けたら、いつまでもメディアに追い回され、「真相はどうか」と追求し続けられる。さっさと会見を開いて、「この件はもう終わらせたい」と考えるのだ。当人に非があってもなくても、とにかく謝る。日本は、このような謝罪パフォーマンスをやらないと、先に進めない社会なのだ。「みそぎ」効果が働くのだ。
  (b)「みせしめ」としての側面だ。公開処刑と呼んでもいい。不祥事を起こした者は、公衆の面前にさらされ、記者の厳しい質問に耐え、できれば苦痛を味わってもらう。そんな大衆の要求があって、その要求に応えることが求められる。ここでは、謝罪は一種の娯楽ともなる。

 (3)(2)-(b)に見られる大衆の残酷さは、文学作品でもたびたび描かれてきた。
 <例1>カミュ『異邦人』では、殺人罪に問われた主人公ムルソーが公開処刑される。
 <例2>魯迅『阿Q正伝』では、主人公阿Qが冤罪で公開処刑される。
 大衆は、彼らの処刑を歓迎し、あれこれ論評する。
 公開処刑は、人権尊重の観点から、どこの国でも近代以降は禁止されたが、人びとの心の中に誰かを罰したい、誰かが罰せられているところを見たいという暗い欲求(いじめの構図とも通底する欲求)が巣くっているのだ。

 (4)では、犯罪者でもない著名人が、なぜ謝罪しなければならないのか。
 こんな場合によく聞くのが、「世間をお騒がせして申し訳ありませんでした」というフレーズだ。
 ここに見え隠れするのは、集団的な調和を重んじる日本的なムラ社会の構図だ。つまり、彼らは「集団の和を乱してごめんなさい」と言っているわけだ。
 そのとき、大衆を味方につけたメディアは、個人を罰する権力と化す。少なくともメディアは、そのような自らの権力構造を自覚すべきだ。

 (5)こうした謝罪の作法は、ときに謝罪そのものを形骸化させる。社会的な責任のある企業人や政治家の会見に殊に、その形骸化が見られる。
 1月28日に閣僚を辞任した甘利明・前経済再生担当相は、退任あいさつで、
 「私どもの不祥事により、世間をお騒がせし、皆さんに大変なご迷惑をおかけして、本当に申し訳なく思っています。責任の取り方に対し、私なりのやせ我慢の美学を通させていただきました」
と述べた。まさに「みそぎ」として退任するという発言だ。
 
 (6)しかし、甘利は決定的な間違いを犯している。
  (a)甘利の責任を問われているのは、「世間を騒がせた=集団の和を乱した」ことではなく、政治資金規正法やあっせん利得処罰法という法律に触れるかどうかの疑惑だ。
  (b)甘利の謝罪の相手は、野次馬としての大衆ではなく、主権者である国民だ。つまり、これは
   当事者(選挙で選ばれた人)が、
   もう一方の当事者(彼に国政を託した有権者)
に説明しなければならない問題であって、著名人の醜聞とは性質が異なる。 

 (7)だが、謝罪や釈明を「みそぎ」「みせしめ」という情緒的な側面からとらえる社会では、謝罪の態度ばかりに注目が集まり、きっぱり閣僚を辞任した甘利は「潔い」と評価されたりする。本末転倒だ。
 謝罪の作法は、とかくリスクマネジメントの問題に還元されがちだ。
 しかし、私たちはもう一度考えてみるべきだ。
 謝罪が娯楽として消費される社会が健全なのか。たたきやすい相手を徹底的に叩くことに、鬱憤晴らし以上のどんな意味があるか。

□斎藤美奈子「形骸化する謝罪 「みそぎ」では本末転倒」(「日本海新聞」2016年2月14日)
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