★廣松渉、加藤尚武・編訳『ヘーゲル・セレクション』(平凡社ライブラリー、2017)
以下、〈〉内は引用文献では傍点の箇所。
(1)ゲオルグ・ウィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(独、1770~1831年)は、18世紀末から19世紀初めに活躍した哲学者だ。ヘーゲルの文体には独自の癖があるので、慣れるまでは面倒だ。しかし、我慢してドイツ観念論独特の表現法を習得すると、ヘーゲルの論理が面白くなる。
本書では、廣松渉と加藤尚武の両氏が、ヘーゲルの著作からの抜粋を並べ換えるだけで、この哲学者の思想をわかりやすく読者に伝えることに成功している。
(2)まずヘーゲルは、人間誰一人例外なく時代の制約の下で生きている事実を強調する。
<ここがロードスだ、ここで跳べ。
哲学の課題は、〈あるところの〉もの[das was ist]を概念的に把握するところにある。というのは、〈あるところの〉ものは理性だからである。個人に関していえば、あらためていうまでもなく誰しも〈その時代の子〉であるが、哲学もまた、〈その時代を思想というかたちで把えた〉ものである。哲学が現在の世界を超え出たつもりになるとすれば、それは個人が自分の時代を跳び越え、ロードス島を超えて外に出ようと夢想するのと同様に愚かである。当人の理論が実際にその時代を超え出るとすれば、そして彼が一つの〈あるべき〉世界を樹てるとすれば、それはなるほど在るにはあろうが彼の私念のなかに在るというにすぎない>【『法の哲学』序文】
(3)先般亡くなった渡辺和子氏は、「置かれた場所で咲きなさい」といつも強調していた。職場でも、今いる場所できちんとした仕事ができない人は評価されない。「自分は周囲の凡庸な連中と違う」とプライドだけが高く、仕事ができない若手には、「ここがロードスだ、ここで跳べ」と目の前で仕事をさせると大きな教育目的が生きてくる。
(4)ヘーゲルは基本的に保守的な思考をしている。
<哲学は〈理性的なものの根本を究めること〉であり、まさにそれゆえに、〈現在的で且つ現実的なものを把握すること〉であって、〈彼岸的なもの〉をうち立てることではない。[・・・・]
理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。虚心坦懐な意識はいずれも、哲学と同様、この確信に立っているのであって、哲学は〈自然的〉宇宙の考察に際してと同様、〈精神的〉宇宙の考察においても、この確信から出発する>【『法の哲学』序文】
現実に存在している事柄は、若干理不尽に思われることがあっても、それが存在できる根拠がある。こう考えれば、職場環境で問題があっても耐えることができる。常軌を逸したことが起きた場合には、必ず理性的で現実的なものが勝利することになる。2002年にあれだけ非難された鈴木宗男氏の北方領土交渉が現在は冷静に受け止められているのも、交渉方針が現実的だったからだ。
(5)ヘーゲルは市民社会(資本主義社会)は、人間同士が利用・被利用の関係を基本とする「欲望の王国」と考え、こう述べている。
<市民社会においては、各自が自分にとって目的であり、他のものはすべて彼にとって無である。とはいえ、他の人々との関係なしでは、彼は自分の目的の全範囲を成就することができない。それゆえ、これらの他者は特殊者たる各自が目的を達成するための手段である。しかるに、当の特殊目的は、他者との関係を通じて普遍性の形式を与えられ、他人の福祉を同時に充たすという仕方で充足される>【『法の哲学』第182節補遺】
(6)自分の利益のために他人を利用することは、資本主義の本質からして避けがたい。しかし、あまりに強欲に他人を利用すると、人間が互いに信じることができなくなってしまう。その結果、社会が弱くなり、すべての人が損をする。何事につけても、やりすぎはよくないということだ。弱者の保護、社会福祉が必要とされるのは、そのようなシステムがあったほうが、すべての人に利益がもたらされるからだ。
(7)ヘーゲルは、真実がわかるのは出来事の最終段階においてであると考えている。
<世界が如何あるべきかを〈教える〉ことに関してなお一言つけくわえておけば、哲学はどのみち、それを教えるには、到来するのがいつもおそすぎる。世界の〈思想〉である以上、哲学は、現実がその形成過程を完了し己れを仕上げ終えたあとの時点になってはじめて出現する。これは概念の教えるところであるが、歴史もまた必然的に次のことを示している。すなわち、現実が熟成したところではじめて、観念的(イデアール)なものが実在的(レアール)なものに対向して現れ、この世界をその実体において把え、自分向けのものとして、これを一つの知的な王国の姿に構築するのである。
哲学が世界の灰色を灰色に描くとき、生の姿はすでに老いている。それは、灰色に描かれた灰色で以て、若返らされるべくもなく、ただ認識されるだけである。ミネルヴァの梟は暮れそめる黄昏を俟ってはじめて飛び立つ>【『法の哲学』序文】
(8)哲学者が、現在起きていることの解説や、未来予測をしているつもりになっていても、それは勘違いに過ぎない。出来事が完成する頃になってようやく全体像が見えるのだ。理屈は常に後知恵なのである。
このことをわかっている政治家や企業経営者は、側近に後知恵の達人を置いておく。そして、自分たちがやっていたことには、実はこんな深い意味があったのだということを解説させる。
ヘーゲルが21世紀に生きていたならば、広告代理店に勤務して成果を上げていたであろう。
□佐藤優「後知恵上手が出世する? ビジネスに役立つ「哲学の巨人」読解法 ~名著、再び ビジネスパーソンの教養講座 第27回~」(「週刊現代」2017年3月4日号)
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「【佐藤優】トランプ側近が考える「恐怖のシナリオ」 ~日本も敵になる?~」
「【佐藤優】弱まる日本社会の知力、実践的ディベート術、受けるより与えるほうが幸い」
「【佐藤優】トランプの「会話力」を知る ~ワシントンポスト取材班『トランプ』~」
「【佐藤優】「不可能の可能性」に挑む、言語の果たす役割の大きさ、NYタイムズ紙コラムニストの人生論」
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「【佐藤優】ソ連崩壊後の労働者福祉軽視、現代も強い力を持つ観念論、孤独死予備軍と宗教」
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