四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

境塚古墳(群馬県藤岡市)

2023年10月28日 | 古墳


藤岡市白石地域(旧平井村)には国指定史跡白石稲荷山古墳をはじめとして沢山の古墳が存在し、
白石古墳群を形成しています。
そんな白石古墳群に属してはいないほぼ無名の古墳「境塚古墳」を訪ねてきました。

名 称:境塚古墳(さかいづかこふん)
別 称:平井村606号墳
墳 形:円墳
規 模:径23.0m、高さ3.5m 埋葬施設:両袖式横穴式石室(截石切組積み)
築 造:不明
出土品:不明
指 定:ー
所在地:群馬県藤岡市白石字根岸

無名(失礼)とはいえ地図には載っていましたのでナビを頼りに当該場所に着くと、緩やかな斜面
に墳丘と思われるものがありました。しかし、古墳を示す標柱も説明板もなく、雰囲気的には現在
の墓地でしたので、まさかここが境塚古墳とは思えずに付近を更に捜すも、ナビはここに誘導して
きます。3度目くらいだったでしょうか、取り合えず確認してみよう墓の方から回り込んでみたら
何と玄室の開口部があるではないですか。予めどこかのサイトで写真でも探してみておけばこんな
失敗はなかったのですが・・・まあ、毎度のことですので。


西側の道路から見る墳丘
墳丘の北側は墓地でいくつもの墓石があり、なるべく墓石が入らないように撮ったものの幾つかは
入ってしまいました


南側から


墳頂の石祠


墳頂から少し下がった南側に石室の開口部を見つけました
下(道路上)からでは見えませんでした


位置的にはこんな感じです


羨道部は破壊されて消失されているいるようです
土砂が玄室の開口部まで迫っています


玄室内です  
奥壁に「明治四十三年 二月六日  ??  古物ナシ」と落書(切り込み)があります。
単なる落書きなのか何か意味があるのか?


落書き?の部分を画像処理してみました


左側壁


右側壁

散策日:令和5年(2023)10月25日(水)

喜蔵塚古墳(群馬県藤岡市)

2023年10月27日 | 古墳


群馬県南部、鏑川南岸・鮎川西岸の白石台地南端付近の斜面地に築造された古墳です。古墳名は嘗
ての所有者名に由来します。

名 称:喜蔵塚古墳(きぞうづかこふん)
別 称:平井村567号墳・田村塚
墳 形:円墳(方墳?)
規 模:径23~25m、高さ4m 埋葬施設:両袖式横穴式石室(截石切組積み)
築 造:古墳時代末期・7世紀末
出土品:不明
指 定:藤岡市指定史跡(名称:喜蔵塚古墳 昭和43年〔1968〕4月23日指定)
所在地:群馬県藤岡市白石字中郷

を訪ねてきました。


南側の道路沿いに【市指定史跡 喜蔵塚古墳】の標柱が建っています
駐車場はありません。路上駐車はしないですぐ近くにある白石公民館に駐車してくださいとの看板
があります。古墳へはここの道を徒歩でとあります。他のルートはありません。
この場所が斜面地であることがこの写真からもわかると思います。


墳丘の前に説明版が設置されています


設置されて間もないようできれいな状態で、判読容易ですので今回は転記しないで済みそうです


開口部 左斜めから


開口部 右斜めから


開口部 正面から 南に向けて開口しています


羨道部
長さ4.30~4.41m、幅1.30~1.35m、高さ1.55~1.60m。側壁、天井石ともに表面を平たく加工した
凝灰岩が用いられています。


玄門


玄室 天井は大きな一枚の石です
長さ2.60m、奥壁幅2.10m、高さ1.85m  大きな凝灰岩の切石で築かれています。


玄室から羨道方向


墳丘


周囲は民家と畑に囲まれていて全体を撮るのは無理でした。裾から墳頂を

散策日:令和5年(2023)10月25日(水)

帯刀古墳群

2023年09月04日 | 古墳


名 称:帯刀古墳群(たてわきこふんぐん)
概 要:神流川流域右岸に分布する古墳群。円墳約20基が現存
築 造:古墳時代後期(6世紀後半)
出土品:埴輪・玉類・銅釧などの装身具など
選 定:埼玉県選定重要遺跡 名称:帯刀古墳群 昭和51年(1976)10月1日選定
所在地:埼玉県児玉郡上里町帯刀、五明、長浜


かつては30基以上の円墳が存在していたようですが、農地転用や削平等で消滅したものがあり現在は20基程度が
現存されるとするも実際の数はわかりません。本筋から外れますが、古墳群の名称「帯刀古墳群」の「帯刀」に
ついて少し記しておきます。

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久寿2年(1155)8月16日、源 義賢(木曽義仲の父)は、武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)の大
蔵館を甥である源 義平(義賢の兄の源義朝の子・源頼朝異母兄)らに襲撃されて同日討ち死にしたとされるのが
定説となっています。
ですが、ここ帯刀地域においては、大蔵合戦で敗れた源義賢は上野国に逃れようと、8月28日この地にまで来たと
ころ敵方に追いつかれて打ち取られてしまった。これを哀れと思った村人はこの地に埋葬し墓を建て、村名の上長
村を帯刀村に改称したとの伝えである。帯刀(たてわき)とは皇太子の護衛にあたった武官の官職名で、源義賢は
その長官である先生(せんじょう)であり、「帯刀先生(たてわきせんじょう)」と呼ばれていたことから、帯刀
を村名にしたということのようです。今は合併により大字のひとつとなっています。

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今回巡ってきた古墳を史跡記号と名称を赤字で入れてみました。実はもっと多くの古墳を回るつもりで位置を書き入れた
メモを作っていったのですが、中々見つからず同じ道を行ったり来たりでした。通り過ぎてしまったものや、既に消滅し
ていたものもあるようで、成果はこの程度でした(いつものことですが)
なお、個々の古墳の直径や高さ等の規模は記しませんので写真を見て大きさを想像して下さい。



上越新幹線の高架の向こうに見えるのが帯刀古墳群の主墳とも言える「稲荷塚古墳・帯刀1号墳」
但し、地図によってはこの古墳は帯刀11号墳とあります。また、この稲荷塚古墳の東南東約280mの場所で高架下沿いの
道の脇にも稲荷山古墳と名がついた古墳があります。どちらが正しいのかわかりませんが、皆さんここを「稲荷塚古墳・
帯刀1号墳」としていますので、疑問を感じつつも当ブログもそれに倣うことにします。



帯刀古墳群の標識と説明板 背後の高まりが「稲荷塚古墳」


説明板の文字と略図はほとんど読めない状態です。昭和61年3月建立のようですが・・・


古墳南東の高架下沿いの道路から


南側から  鳥居の神額には「松下稲荷」と揮毫されています。稲荷塚古墳と言われる所以でしょう。


墳頂にある小祠(稲荷神社)


南西方向から


北方向から


円墳の北東斜面に見られる沢山の河原石 ほかの場所には見られませんが葺石でしょうか?  

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鬼塚古墳  東側道路から


鬼塚古墳  北側道路から

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帯刀15号墳 南東方向から 
墳頂部が削平されたように広くなっています 石造物が2~3基見えますが近付けないので確認できませんでした

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福昌寺」 山号を士峯山と号する曹洞宗の寺院です。過去に2~3度参詣していましたが、その際は山門があり
ませんでした。いつの間にか建立されていたようで、記念碑を見ると令和3年12月の建立のようでした。
帯刀先生こと源義賢の墓(宝篋印塔)があるお寺で源義賢の没(久寿2年〔1155〕)後から300余年経た寛正5年
(1464)に創建され帯刀山士峰院と称したのが始まりとされます。
この福昌寺境内にも複数の古墳がありますので幾つかを。



福昌寺本堂前にある  帯刀29号墳 石段脇の石の前に「上里町 107号古墳」と記された小立て札があります。
107というのは上里町の遺跡の遺跡番号をスライドしています。
帯刀※※号墳 と 上里町 ※※※号古墳(或いは 帯刀古墳群※※※号古墳) と言った複数の呼称があって
ややこしくしています。更に、帯刀古墳(例)などの名称を持つ古墳もありますので統一した呼び方ができませ
ん。
墳頂の石碑は源義賢(帯刀先生)を称えた碑ですが、全部漢字のうえ大分古いものですので読むとなると大変で
しょう。



帯刀29号墳 西側から


帯刀29号墳 東側から


「上里町 106号古墳」


「上里町 105号古墳」? 立札がなかったので自信なし


本堂裏にある帯刀26号墳 「上里町104号古墳」の小立て札あり
ほとんど古墳の形を残していないようです


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帯刀22号墳  石段脇に「上里町 101号古墳」と記された小立て札があります。背後と横は墓地です


墳頂にある小祠とその覆い屋  および石碑

散策日:令和5年(2023)8月27日(日)

黒田古墳群

2023年08月10日 | 古墳


名 称:黒田古墳群(くろだこふんぐん)
概 要:荒川左岸の河岸段丘上に築造された後期古墳群。かつては30基を超える古墳があったが現存は4基。
    黒田2号墳(帆立貝型前方後円墳)と黒田10号墳(円墳)の2基が市指定史跡となっている。
築 造:古墳時代後期(6世紀後半)
出土品:副葬品は大刀、鉄鏃等の武器、轡、壺鐙金具等の馬具、高坏、堤瓶等の須恵器、装身具としての空玉、
    管玉、丸玉等多くの玉類が出土。
指 定:深谷市指定史跡   名称:黒田古墳群 昭和52年(1977) 4月1日指定
選 定:埼玉県選定重要遺跡 名称:黒田古墳群 昭和51年(1976)10月1日選定
所在地:埼玉県深谷市大字黒田 (旧・花園町)


黒田古墳群の存在は前々から知っていましたが、いつでも行けるという思いがあったのか、中々訪れる気になら
ずにいました。別の件で何回か古墳群のある辺りは行っていましたし、近くにある道の駅やホームセンターなど
には年中行っているのですが。
ついにその気になって猛暑の中を行ってきました。手書きで描いていった地図が全く役に立たず、逆に混乱を招
く結果となり何度も同じところを行ったり来たりし、何とか4基の古墳に。古墳の規模等については省きますので
写真で想像して下さい。これを世間では手抜きと言うそうな・・・



現存する4基の古墳の位置を示しました。


黒田古墳群の主墳である「黒田2号墳」を西方から 手前が前方部


現地の黒田古墳群説明板
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    黒田古墳群
                           所在地 花園町大字黒田
黒田古墳群は、この付近一帯にあった三十基に余る古墳の総称である。
長い年月の間に荒廃していたが、荒川中部第一次ほ場整備事業実施に当り、昭和四十九年に十三基が調査された。
また関越自動車道花園インターチェンジ設置に伴い、昭和五十二年に三基が発掘調査された。
古墳の内部主体は河原の自然石を乱石積みにした横穴式石室で、大部分が袖無型の狭長な長方形プランである。
副葬品は大刀、鉄鏃等の武器、轡、壺鐙金具等の馬具、高坏、堤瓶等の須恵器、装身具としての空玉、管玉、丸
玉等多くの玉類が出土した。
構造や出土品等を総合的に考察すると、築造年代は六世紀後半から七世紀初期と考えられる。
昭和五十二年四月、主墳である前方後円墳一基と、東方約百六十メートルの円墳一基を町の文化財に指定した。 
   昭和六十年三月
                                       深谷市教育委員会

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既に判読が難しい状態になっていたため、他の方のブログにあった写真を参考にして記載しました。


「黒田2号墳」を南方から 左側が前方部


「黒田2号墳」を南西から 


「黒田2号墳」を北北東から 


「黒田2号墳」墳丘北側裾部の葺き石


「黒田2号墳」墳丘北北東の大量の葺き石
河原石が使われていますが、すぐ近くを荒川が流れていることから調達が容易であったと考えられます。



「黒田2号墳」墳頂  盗掘?の跡が数カ所みられました。 


「黒田2号墳」墳頂から「黒田10号墳」方向を


「黒田10号墳」北側から  右の建物は養鶏所跡の建物
「黒田古墳群第10号墳」と書かれていた標柱が立っている筈ですが見落としたか。



「黒田10号墳」東側から  


「黒田10号墳」南側から  


「黒田10号墳」墳頂 この10号墳も多くの葺き石があります。 


「黒田2号墳」墳頂から「黒田16号墳」方向を


「黒田16号墳」を北方から


第一石産運輸花園工場へ出入り口となっており、墳丘東側が大分削られています。


「黒田19号墳」墳頂に神社社殿が建立されている


「黒田19号墳」 神社にしたため元の墳形を壊しているようです。


「黒田19号墳」を社殿裏側から


「黒田19号墳」の南西約80mのところにある古墳? 消滅、半壊扱いになっている「黒田18号墳」

散策日:令和5年(2023)8月7日(月)

平地神社古墳

2023年05月23日 | 古墳


平地神社古墳は鮎川右岸の平坦地、中大塚の平地神社境内にある古墳で、中大塚古墳群を形成する
古墳のひとつ。美土里村81号古墳の別称は、この場所がかつて多野郡美土里村であった時に付いた
名称のようです。

名 称:平地神社古墳(へいちじんじゃこふん)
別 称:美土里村81号古墳
墳 形:円墳 
規 模:径33m、高さ3.5m・後円部13.5m  埋葬施設:両袖式横穴式石室(模様積み)
築 造:6世紀後半
出土品:人骨・人歯、直刀・鉄鏃・金環・刀子・馬具・葺石・埴輪列
指 定:藤岡市指定史跡(名称:平地神社古墳 昭和45年〔1970〕4月15日指定)
所在地:群馬県藤岡市中大塚1203 (平地神社境内)




平地神社古墳は平地神社のほぼ東側に位置している




南西方向から平地神社古墳
墳頂には稲荷祠が祀られている




開口部は南向き 前庭部は台形で外に広がっている




墳丘に建てられている標柱「藤岡市指定史跡 平地神社古墳」




「藤岡市指定史跡 平地神社古墳」説明板
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  平地神社古墳
    所在地 藤岡市仲大塚一二〇三
     所有者 平 地 神 社
古墳は径三三㍍、高さ三・五㍍の円墳で、葺石、埴輪列が確認されている。主体部は南に開口する横穴式両袖側
石室で、全長九・七㍍、玄室長五・三㍍、玄室奥壁高一・九㍍である。石室は羽子板を呈し、わずかに銅張りが
認められる。
石室の積み方に特徴があり、玄室は珪岩室の転石と棒状の片岩を用いた模様積みで、羨道は河原石の乱石積みで
ある。なお、入口には台形状の前庭が付設される。前庭の大きさは上片幅二・四二㍍、下辺幅約約四・九五㍍、
長さ三六五㍍である。石室内から直刀、刀子、鉄鏃、耳環、馬具などが出土している。これらの遺物から六世紀
後半の特徴を示している。本古墳は市内における模様積み石室を有する古墳では最大の規模をもつものである。
                                         藤岡市教育委員会

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石室開口部  鉄格子と金網の扉が設置され施錠されています
石室全長は9.7m




羨道は河原石の乱積み
残念ながら玄室が暗くて写っていません




羨道の河原石の乱積みの状況




玄室部分をトリミングして画像処理してみましたがこの程度です
側壁の「模様積」(珪岩質の軽石と棒状の片岩を用いたもの)までは分りません




墳丘を西方から




墳丘を北方から




墳丘を南方から

散策日:令和5年(2023)4月25日(火)

諏訪北古墳

2023年05月17日 | 古墳


諏訪北古墳は、墳群馬県南部・神流川西岸の沖積地に築造された円墳です。同古墳が所在する諏訪
神社境内には、藤岡市指定史跡となっている諏訪古墳があり。同古墳の北東200mに位置しています。

名 称:諏訪北古墳(すわきたこふん)
別 称:藤岡町4号墳
墳 形:円墳 
規 模:直径25m・高さ2m  埋葬施設:両袖式横穴式石室(切組積み)
築 造:古墳時代後期(6世紀後半)
出土品:所在不明
指 定:なし
所在地:群馬県藤岡市藤岡495 (諏訪神社境内)




十石街道から諏訪神社境内を  奥の参集殿の右側に見えるのが「諏訪北古墳」




諏訪北古墳の墳頂に建立されている「高山長五郎功徳碑」(右側)と墳丘中腹に建立されている
「町田菊次郎頌徳碑」(左側)




上の二基の石碑についての解説  ※古墳とは直接関係ありませんので内容は触れません




諏訪北古墳の東側




神橋(諏訪橋)上から諏訪北古墳を見る
右側の躑躅の花のところに石室の開口部があります




石室開口部  南南西方向に開口しています




石室入口には鉄格子の扉が設けられており立ち入りは禁止されています
格子の間から石室を覗くしかありません




開口部の状況




石室全長 3.8m、玄室 長さ3.4m、幅1.8m、高さ1.65m。
羨道部分は自然石の転石を乱石積みにしています




玄室の奥壁は一枚岩




諏訪古墳(諏訪神社本殿)裏側から諏訪北古墳を
池は諏訪古墳の周の名残りのようです

散策日:令和5年(2023)4月25日(火)

諏訪古墳

2023年05月16日 | 古墳


諏訪古墳は、墳群馬県南部 神流川西岸の沖積地に築造された古墳です。現在、前方後円墳の後円
部墳頂には諏訪神社社殿が鎮座しています。

名 称:諏訪古墳(すわこふん)
別 称:藤岡町3号墳・諏訪神社古墳
墳 形:前方後円墳 
規 模:全長57m・後円部径37m・高さ4m  埋葬施設:両袖式横穴式石室(模様積み)
築 造:古墳時代後期(6世紀後半)
出土品:銀環、単鳳環頭太刀、直刀、刀子、衝角付冑、挂甲小札、鉄鏃、弓弭金具、須恵器など
指 定:藤岡市指定史跡(名称:諏訪古墳 昭和49年〔1974〕3月26日指定)
所在地:群馬県藤岡市藤岡495 (諏訪神社境内)




諏訪神社参道入口  




この参道は古墳の前方部に当るようです




諏訪神社の社殿が鎮座している後円部




諏訪神社社殿




扁額「諏訪神社」と揮毫




墳丘南西面?
玉垣の向こうに見えるのが末社の稲荷社など
右端に標柱が見えますが石室開口部があるところ




石室開口部  西南方向に開口




標柱「藤岡市指定史跡 諏訪古墳」  
藤岡市の指定史跡の標柱はこのタイプが使われているようです




『諏訪古墳』説明板
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 諏訪古墳
   所在地 藤岡市藤岡四九五
    所有者 諏訪神社
古墳は、全長五七㍍、後円部径三七㍍、高さ四㍍の前方後円墳で、墳頂部に諏訪神社社殿が建てられている。
明治三九年、柴田常恵氏により発掘調査が行われ、西南に開口する両袖型横穴式石室が確認された。石室は全
長五・九㍍の切石積みで、玄室の奥に棺座を区画する間仕切り石、玄室入口には二石の框石が設置されている。
石室内からは、人骨、銀環、単鳳環頭大刀・直刀・刀子・衝角付冑・挂甲小札・鉄鏃・弓弭金具・須恵器・馬
具などが出土している。また、後円部北側から東側の墳丘にかけて埴輪(円筒・朝顔・靫・鞆・人物)が出土
している。石室の構造や出土品から六世紀後半に造られたと推定される。
                                        藤岡市教育委員会

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石室開口部に近づいてみます




上記「説明板」には!”前庭”の文字は見えませんが、鉄格子手前の両側が石垣になっているぶ部分は
「前庭部」に相当する部分でしょうか?




石室入り口は鉄格子の扉でされています閉ざされています。以前は石室内に入れたようですが、
現在は立ち入り制限がされています。




羨道。玄室とも上部に行くにしたがい狭くなっていて長い台形のようになっています




鉄格子の間から撮ったものですから玄室内はよくわかりません




玄室内を目一杯ズームを利かせて・・・
切り石積みであることがどうにか分ります




墳丘南面  〇印のところが石室開口部




同じく南面 上より少しずれた位置



墳丘の北側にある池  周堀の跡のようです

散策日:令和5年(2023)5月25日(火)

堀越塚古墳

2023年05月12日 | 古墳


堀越塚古墳は、鮎川左岸の河岸段丘上にあり、南側に傾斜する斜面を利用して造られた古墳です。
墳丘の東側は宅地により削り取られています。
主体部は南西に開口する両袖型の横穴式石室で、玄室と羨道の一部が現存しています。

所有者・家族の方と接触することが出来ませんでしたので石室を見ることはできず、道路から数枚
の写真を撮るだけで終えてしまいました。これは北側からの写真ですが、墳丘の東側は住宅にが削
りとられています。

名 称:堀越塚古墳(ほりこしづかこふん)
別 称:-
墳 形:2段築成の円墳 
規 模:径25m、高さ2.5m・玄室全長4.45m、奥壁幅2.52m・奥壁高2.18m  
築 造:7世初頭
出土品:不明
指 定:藤岡市指定史跡(名称:堀越塚古墳 昭和45年〔1970〕4月15日指定)
所在地:群馬県藤岡市藤白石1948-1




北西から  標柱と説明板が墳丘の上の方に設置されていますので読みづらい状態です。かと言っ
て墳丘の裾に設置すると道路上に倒れる恐れもなきにして非ずといったところでしょうか・・・




標柱『藤岡市指定史跡 堀越塚古墳』




『藤岡市指定史跡 堀越塚古墳』説明板
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 堀越塚古墳
  所在地 藤岡市白石一九四八ー一
   所有者 堀越卓一
古墳は、白石古墳群の中の下郷支群に占地する。道路拡幅工事により発掘調査が行われ、二段築成の円墳である
ことや葺石が確認さた。
欠失している。玄室の大きさは全長四・四五㍍、奥壁幅二・五二㍍、奥壁高二・一八㍍である。平面形は、徳利
型を呈している。
石室の積み方は、
珪岩質の転石を積み上げ、隙間を棒状の片岩で小口積みにし、壁体はドーム状になっている。副葬品は不明であ
るが、石室の構造などから七世紀初頭に造られたものと考えられられる。
                                         藤岡市教育委員会

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西側から




南西側から
こうしてみると道路拡張のためか北側から西側にかけての裾部分も削られているのが分ります。

散策日:令和5年(2023)5月25日(火)

霊符殿古墳

2023年05月11日 | 古墳


霊符殿古墳は、群馬県南部・神流川西岸の低河岸段丘に築造された古墳で、天龍寺境内にあります。
本郷・小林古墳群を構成する古墳のひとつです。そんな霊符殿古墳を散策してきました。

名 称:霊符殿古墳(れいふでんこふん)
別 称:-
墳 形:円墳 
規 模:径33m、高さ5.9m・後円部13.5m  埋葬施設:両袖式横穴式石室(模様積み)
築 造:6世紀末
出土品:不明
指 定:藤岡市指定史跡(名称:霊符殿古墳 昭和45年〔1970〕4月15日指定)
所在地:群馬県藤岡市藤岡461-8 (天龍寺境内)




霊符殿古墳がある天龍寺の山門




天龍寺本堂  霊符殿古墳はこの本堂の東方にあります




四阿の後ろにあるのが霊符殿古墳




石室開口部  南に向けて開口しています
右側に写っている民家と古墳との間をJR八高線の線路が走っています
この線路を通すために墳丘の一部が削られてしまったようです




『霊符殿古墳』説明板
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 霊符殿古墳
   所在地 藤岡市藤岡四六一-八
    所有者 天 竜 寺
この古墳は径三三㍍、高さ五・九㍍の大きさで、墳頂に霊符殿がまつられている。墳丘の西側は周溝の名残を留
める窪地になっている。石室は南に開口する横穴式両袖型石室で、羨道、玄室からなり、楣石が設置されている。
大きさは全長九・二㍍、玄室長四・九七㍍である。
石室の石積み方に特徴があり、珪岩質の転石を中心に細長い棒状の片岩をまわりに配した模様積みになっている。
古くから石室が開口していたため副葬品は不明であるが、古墳時代終わり頃の六世紀後半以降に造られたものと
考えられる。
                                       藤岡市教育委員会

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開口部を東側から  墳頂に鎮座するのが「霊符殿」




開口部




開口部




開口部 鉄製格子の扉が設けられて施錠されています
以前はお寺(住職)さんにお願いすれば石室内を見学させていただけたようですが、東日本大震災以降は危険
防止のために立ち入りができなくなったようです。





鉄製格子扉の格子の間から石室内を撮ってみましたが玄室は暗くてうまく撮れません




【羨道】長4.05m、羨道側壁は片岩と珪岩を用いた模様積のようですが玄室内の模様積と比べると
中途半端とのことです(この目で確認していないのでこういう言い方しかできません)




真っ暗にしか写っていなかった写真を画像処理してみましたがこの程度にしかなりませんでした




墳丘の西側 周濠がそのまま沼地になったようでちょっと足を踏み入れたら ズブズブ




墳頂への道です  墳頂に鎮座する霊符殿は北向きに建てられていますので、この道は背後からの
道ということになります




霊符殿古墳の名称の由来となった『霊符殿』




扁額『霊符殿』
   新田大炊介義重廿四世  源朝臣道純拜書
とあります。
新田義重と言えば「新田氏」の祖  後裔の方の揮毫のようですが、調べたら江戸後期の画家
新田氏の本拠地(現在の太田市)とここ藤岡市はともに上野国ですし比較的近い位置にあります。
古墳とは関係ない無理矢理なこじつけでした・・・





墳丘北側にある石段 これが正規の参道の階段?
実はこの石段下の右側に「群馬県指定史跡 霊符殿古墳」の標柱が建ってい茶のですが写真を失念
群馬県指定史跡の場合 標柱と説明板が並んで建てられているのですが、ここにあっては別々の場所(墳丘の北西側と東
南側)でした・・・これもどうでもいい話


散策日:令和5年(2023)4月25日(火)

戸塚神社古墳

2023年05月09日 | 古墳


神流川左岸の平坦地に造られた6世紀後半の前方後円墳で、前方部の墳頂には通称「おくまん様」と
呼ばれる戸塚神社が祀られている「戸塚神社古墳」を散策してきました。

名 称:戸塚神社古墳(とつかじんじゃこふん)
通 称:おくまん様
墳 形:前方後円墳 
規 模:全長53m・前方部幅40m・後円部径27m・後円部高さ2.5m 埋葬施設:両袖式横穴式石室
築 造:6世紀後半
出土品:圭頭太刀・菅玉・切小玉・埴輪
指 定:藤岡市指定史跡(名称:戸塚神社古墳 昭和45年〔1970〕4月15日指定)
所在地:群馬県藤岡市上戸塚363 (戸塚神社境内)




社号標柱「村社 戸塚神社」と一の鳥居  古墳の東側に位置しています




二の鳥居  奥に見えるのが社殿 古墳の前方部に鎮座しています
社殿のある所の方が高いことから一見して後円部と思ってしまいます




「説明板」と「戸塚神社古墳」の標柱の背後の覆屋と金網フェンスで囲まれたところが石室部分
社殿のある前方部より低いですが、削平による変形のためものだそうです




「戸塚神社古墳」説明板
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  戸塚神社古墳
  所在地 藤岡市上戸塚字熊野三六三
  所有者 戸塚神社

本古墳は藤岡台地の北東部に位置する六世紀後半に造られた前方後円墳である。通称「おくまん様」と呼ばれて
いる。
古墳の大きさは全長五三メートル、前方部の幅四〇メートル、後円部の径二七メートルである。
石室は両袖型の横穴式で、玄室の平面形は胴張りになっている。側壁は河原石を乱石積みにしたもので、玄室の
中段あたりから積み方が変化している。
出土遺物は、圭頭太刀・菅玉・切小玉・埴輪などがある。これらの遺物は、現在東京国立博物館に収蔵されてい
る。                                       藤岡市教育委員会

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覆屋と金網フェンスで囲まれた石室
石室の開口部は南西方向きを向いています




金網フェンス越しに見えるのが社殿が建つ前方部
こうしてみると前方部と後円部が逆のように見えてしまいます
普通は高さのある後円部に神社がありますので、最初は前方部を見て後円部と勘違いしそうです




金網フェンスで石室開口部に近づけないうえに石室内に土嚢が詰められおり内部の様子が分りません
※以前から右側壁が大きく崩れてきたうえに東日本大震災で崩壊が早まり、内部に土嚢が積まれたようです
なお石室は全長8.1m、玄室の長さ4.2m・奥幅2.5m、羨道の長さ3.9m 羨道の前には細長い前庭




石室開口部を東方から
あくまで個人的な感想ですがこの後円部の姿が「登り窯」のように見えてしまいます




後円部(一部?)を北方から




戸塚神社社殿

散策日:令和5年(2023)4月25日(火)