下里・青山板碑製作遺跡
[2015年1月9日]
鎌倉時代から戦国時代の板碑製作遺跡です。13世紀頃から関東では仏教信仰の高まりを受け、寺院建立に加え緑泥石片岩製の石塔である「板碑」の造立が
盛んになりました。小川町は板碑石材の有力な産出地と考えられており、平成13年に下里地内で加工石材が採集されたことを契機に、小川町教育委員会が
調査を開始したところ、採掘の可能性がある地点が、割谷(わりや)地区、西坂下前A地区、内寒沢(うちかんざわ)地区など19箇所確認されました。
割谷地区では、緑泥石片岩の露頭や、大小のズリによって形成された幅50m、奥行き45m程の平場がみられます。発掘調査では、矢穴痕が残る岩塊や板碑形の
ケガキ線や溝状の彫り込みの残る石材、平ノミによる削り痕がある石材等が確認され、採掘から板碑形へ加工するまでの工程が明らかになりました。
また、出土した未成品の大きさや加工技術を町内外にある板碑と比較検討した結果、割谷地区における採掘の最盛期が関東で最も多く板碑が造られたとされる
14世紀中頃~15世紀後半であることが判明しました。遺跡の規模や採掘の可能性がある地区が多数確認されることから、小川町内で生産された板碑の量は膨大で、
武蔵国における板碑の中心的な生産地であったと考えられます。板碑の生産と流通だけでなく、板碑に象徴される中世の精神文化を知る上でも重要な遺跡です。
(小川町ホームページから抜粋)
この「下里・青山板碑製作遺跡」について
国の文化審議会(会長:宮田亮平)は、平成26年6月20日(金曜日)に開催される同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、
小川町に所在する下里(しもざと)・青山板碑(いたび)製作遺跡を国指定史跡に指定するよう文部科学大臣に答申しました。
この結果、官報告示の後に、国指定史跡に指定される予定です。
とのことでしたが、平成26年10月6日に正式指定され、埼玉県における国指定史跡は19件、小川町に主体的に所在する国指定史跡は初めてとなりました。
(1) 員数 1
(2) 所在の場所 比企郡小川町大字下里字林殿谷(りんでんやつ) 他
比企郡小川町大字下里字西坂下前
比企郡小川町大字下里字内寒沢(うちかんざわ)
(3) 指定面積 55,222.85平方メートル
国指定から4ヶ月ほど経ってしまいましたが、後学のために、この「下里・青山板碑製作遺跡」を見に行ってきました。行った先はこのうちの割谷遺跡(割谷地区)です。
順路は上記地図の通り、国道254号線から下里地区に入りました。
矢印の入った「下里・青山板碑製作遺跡 割谷地点」の標識が立てられていますので矢印に従って進行
少し進むと橋の手前両端に臨時駐車場が有ります。何を勘違いしたのかこの先には駐車場がないと思い込み駐車して徒歩にて
橋を渡ります
途中、道端に墓地がありましたが、緑泥石片岩の墓石が立ち並んでいました。板碑と同じ石材を使用していても、墓石は墓石であり板碑とは言わないようです。
実は、製作遺跡直近に駐車場が有ったのです。この駐車場と臨時駐車場を勘違いしてしまったわけでして(こんな間違いをするのは他にはいないでしょうね)
この先工事中については車両対象で、遺跡散策には影響ありません。
ロープの中は遺跡保護のため入れません。
ズリ平場
大量のズリです
割谷地区第1号トレンチ(試掘坑)の状況
ちょとアップで撮ってみました。
板碑とは何か
板碑は板石塔婆、青石塔婆とも呼ばれ、中世(鎌倉時代から戦国時代)にかけて造立された石製の供養塔婆の一種です。亡くなった人の供養や、造立者自身が
死後の冥福、現世利益を願うために造立されました。正面に本尊となる仏菩薩を梵字や図像で刻み、その下に紀年銘や造立目的などが刻まれています。
北海道から九州までの全国各地で造立され、その地域の石材が利用されました。関東地域では主に緑泥石片岩(地元では下里石・青石などと呼ぶ)が利用され、
武蔵型板碑と呼ばれています。 (平成26年11月11日~24日開催 「下里・青山板碑製作遺跡 国指定史跡記念関連提示」の資料から抜粋)
散策日:2015(平成27)年2月12日(木)