四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

武蔵武士の本拠を訪ねる3 丹党加治氏の遺跡を巡る ③

2018年03月19日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


智観寺で宝物殿の収蔵品や中山信吉らの墓を見学後は、智観寺のすぐ東方にあった中山家範館跡の散策です。
館跡の一角に中山家範館跡碑と中山家範館跡説明板が並んで建てられていますが、これは館跡碑。




石碑の右側に建っている中山家範館跡の説明板 褪色してほとんど読めない状態ですが、写真元画を拡大して何とか読んでみました。
文面は次の通りです。

埼玉県指定旧跡
   中 山 家 範 館 跡
                                         飯能市大字中山496番地2ほか
                                         昭和38年2月7日指定
 中山氏は武蔵七党の一つ丹党の出で、鎌倉時代の加治家季の頃に中山に居住し、中山を氏とするようになったという。館の西方に
位置する智観寺には、加治家季夫妻の供養のために建立されたと推定される板碑(仁治2・3年、1241・1242年)がある。
 中山家範は後北条氏に従い、天正18年(1590)八王子城で戦死している。
 この館は小規模なものであり、周囲に推定幅4~6メートル、深さ1~2メートルの堀をめぐらしていた。この内堀は東西約60
メートル、南北約90メートルで、外郭は東西約110メートル、南北約130メートルと推定される。館の北には勘解由山があり、
館は丹生堀と加治堀の水源にはさまれていた。また西に智観寺、北西に丹生社、北に鎮守12社が置かれた。
 館の周辺には中山家に仕える武士の居宅や田畑があり、中山氏は日常は農業経営を行い、武芸の鍛錬に励み、戦闘にあたっては武
士団の長として活躍した。
 館跡は戦後、北堀及び西堀の一部が残されていたが、現在は宅地化が進み、空堀が北西部隅に残されるのみとなっている。
  平成8年3月
                                              埼玉県教育委員会
                                               飯能市教育委員会




上記説明板の地図部分 撮影したそのままでは見づらいので加工してあります。
現在地の文字の左側に黒点がありますが、遺構はその場所に土塁と堀跡がわずかに残る程度で、周囲は完全に住宅街と化しています。




僅かに残る土塁と空堀跡です。ガレージの向こう側に石碑と説明板が建っています。ガレージの向こう側の道路からは、ガレージの
陰になっていますのでこの遺構は見えません。
石碑や説明板があるから、また、この場所に中山家範館跡の遺構があるといった予備知識があれば、土塁や堀跡を遺構と認識できる
かもしれませんが、石碑や説明板もなく、予備知識もなかったら、ここが館跡とはお城ファンでも気付かないかもしれません。




反対方向から見た土塁や堀跡 こう見ただけではただの窪地くらいにしか見えません。




中山家範館跡見学の後は最後の見学場所加治神社です。




「中山氏と加治神社」説明板




「加治神社寛永十九年石灯籠」説明板




社殿前の参加者の様子




社殿

丹党加治氏の遺跡巡りもここ加治神社で無事終了。現地解散となり参加者は最寄り駅や市民会館へなどと帰路につきました。

散策日:平成30年(2018)3月16日(金)