四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

奈倉館(埼玉県小鹿野町)

2018年04月11日 | 100名城以外の城館跡


城 名:奈倉館(なぐらやかた)
別 名:―
形 態:館
時 期:室町時代
築城主:奈倉加賀守行家
城 主:奈倉加賀守行家、同重家、同下野守重則
遺 構:土塁、水堀の一部
指 定:町指定史跡(昭和37年(1962)9月20日指定)
現 状:農地、宅地
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野納蔵(旧・小鹿野町)

奈倉館は、畠山重忠の後裔加賀守行家が在名(名倉)を氏として、ここに構えた居館であり、館跡内の妙見宮は遠祖平良文の
信仰に倣ったものであろうとの伝承がある。

そんな畠山重忠に所縁ある館跡「奈倉館」を訪ねてみました。




現地に設置の「小鹿野町文化財案内」板から




奈倉館跡の方向を示す表示板




四阿




標柱があります




→ 奈倉館跡  とありますのでここを東に進むことに  
先ほどの「四阿・奈倉館跡」の標識に従わず別方向を歩いてしまいましたので、ここに辿り着くのに一苦労(いつものこと)




畑の向うの家々のある場所も館跡の一部のようです。
白い山肌を見せているところが国指定天然記念物「ようばけ」で、1500万年前に堆積した地層の大露頭です。




両脇の樹木が繁茂したところの堀が「八幡沢」 ここからが「堀の内」や「打出」と呼ばれる館跡




八幡沢から来た道を振り返ってみました




堀(八幡沢)の中




館跡南東部に設置の「小鹿野町文化財案内」板




小鹿野町文化財案内

町指定史跡 『奈倉館跡』 昭和37年9月20日指定

奈倉は、秩父氏館(吉田町)に居住した武蔵武士の秩父氏から分かれた奈倉氏が移り住んだ所と伝わる。ここを本拠地とした
のは、奈倉加賀守行家(1459~1552)同重家、下野守重則(1529~1570)の3代と伝えられている。
館は、赤平川が下小鹿野で鍛え流れを変え、さらに西に向かう地点の左岸河岸段丘上に築かれている。標高は211~216
m、段丘上は緩く北東へ傾斜し、比高差約20mの急崖となり、赤平川へ落ちる。館は、八幡沢と赤平川に挟まれた台形状を
した東端部分にある。西側河岸段丘部には、奈倉重家が永禄元年(1558)秩父大宮の妙見宮(現秩父神社)を勧請したと
いわれる妙見宮、同じく重家が開基し、奈倉氏の菩提寺となった曹洞宗大徳院があり、奈倉氏の持仏と伝えられる阿弥陀如来
像(町指定有形文化財)が残る。

本当は写真で済ませたかったのですが、縦長なもので見づらくなりますので(仕方なく)転記しました。
他は写真で済ませます(手抜きです)




奈倉館跡周辺図




奈倉館の記録と伝承




奈倉館の遺構  見取図については別個に冒頭に載せてあります




館跡西側部分 北西隅に八幡社跡があります




八幡社跡




八幡社跡から東方にある摩利支天跡に繋がっている石塁




摩利支天跡から八幡社跡に延びる石塁を見る




摩利支天跡




摩利支天跡の東側にも石塁があり その間に小口がある




小口部分をアップで 




小口の東側の石塁側面




小口の東側の石塁全体




石積みの状態がよくわかります




石塁の上から赤平川を望む




少し離れた位置から小口の様子を




土塁 物見の跡?




更に東側は農地(畑)で石塁等の遺構は見当たりません




館跡ほぼ中央に建つ「奈倉館跡」の標柱




南東隅から館跡内を




館跡東側を南北に走る道路 この周囲も館跡です  一通り歩いてみましたが生活の場ですので写真は控えます




再び民家のある館跡の一部を遠景で




妙見宮 社殿左隣の建物は奈倉会館(集会場)




奈倉氏の菩提寺 大徳院




お約束の六地蔵尊  両側に三尊づつというのは初めての体験です




本堂




門前にそびえる小鹿野町指定天然記念物「大徳院の一本杉」




大徳院北側の急崖と流れる赤平川  白く見えるのは奈倉橋

民家のある館跡内を歩いていたとき地元の高齢の男性と少しだけ話した。「骨接ぎの名倉堂は、ここの奈倉の子孫なんだ」と
言った。名倉堂という有名な接骨院があることについては昔から知っていたが、ここの奈倉氏の子孫がルーツだったとは初め
て知った。そもそも、奈倉氏・奈倉館というのを知ったのは最近でであるが・・・

散策日:平成30年(2018)年4月5日(木)