四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

スポット展「近現代の菅谷館跡」

2023年04月04日 | 企画展・見学会


埼玉県立嵐山史跡の博物館で開催中のスポット展「近現代の菅谷館跡」を観覧してきました。




埼玉県立嵐山史跡の博物館への出入り口です。当博物館は『菅谷館跡』内に建てられており、この
出入り口は「搦手跡」と言われています。
また新しい幟旗が立っています。




濃紺文字のものは【畠山重忠居館 菅谷館】 青文字のものは【関東管領上杉顕定居城 菅谷城』とあり
ます。
『菅谷館跡』というとどうしても畠山重忠の居館であったという伝承のイメージが強くありますが、戦国
時代に城郭として発展した史跡であるようです。
山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の争いであった「長享の乱」(長享元年〔1488〕から永
正2年〔1505〕)における「須賀谷原の合戦」のおりに上杉顕定は菅谷館跡に入り6世紀前半まで拠点とし
たようです。更に、「河越夜戦」で勝利した北条氏(小田原北条・後北条)がつなぎの城として使ったと
も言われ、こんなことから城郭として発展したもの。
では、菅谷館は菅谷城のどのあたりにあったかというとそれは分っていないようです。
本郭跡の部分が畠山重忠によってが築かれた居館があった場所。と言っている超有名な歴史学者がいます
し、そう認識している方も多いようです。しかし、本郭跡から畠山重忠時代のものは出土していないとの
ことから、完全に否定できないまでも肯定はされておりません。また、本郭部分は館跡から戦国時代に城
郭へと拡張されていった段階でできたという推測も可能です、





幟は【畠山重忠居館 菅谷館】と【関東管領上杉顕定居城 菅谷城】の2種類しか見当たりません
が、横断幕を見て下さい。右側に北条氏の家紋が入っています。
菅谷館跡=畠山重忠 が強調されていますが、実は今の形は菅谷城跡ということです。
左:畠山重忠の家紋『小紋村濃』
中:山内上杉氏の家紋『竹に飛雀』
右:北条氏の家紋『三つ鱗』




スポット展「近現代の菅谷館跡」は展示室の一画を使っての展示ですからスポットの名の通り展示
品は少数です。
入館料を支払い展示室に。常設展示を一通り見てからスポット展示へ
展示内容は、
 Ⅰ 重忠追慕 ー像は鎌倉を向いて立つー
 Ⅱ 明治の記憶 ー絵図と公図ー
 Ⅲ 今に活かし未来に遺す ー史跡保存と整備ー
 Ⅳ 嵐山行楽 ーもう一つの近現代ー




開催にあたって

菅谷館後が国史跡に指定されて50年になります。
とありますが 昭和48年(1973)5月26日に国史跡に指定されています。
なお、博物館が開館したのはその3年後の昭和51年(1976)4月で、当時の名称は「埼玉県立歴史
資料館」でした。




Ⅰ 重忠追慕 ー像は鎌倉を向いて立つー のコーナーから
竹筋コンクリート製の畠山重忠像の建立途中の写真




Ⅲ 今に活かし未来に遺す ー史跡保存と整備ー のコーナーから
菅谷館跡発掘調査出土遺物の一部




 Ⅳ 嵐山行楽 ーもう一つの近現代ー のコーナーから
昭和戦前期(1940年以降)の観光パンフレット・リーフレット
 嵐山・武蔵嵐山などの言葉が使われていますが、この当時は菅谷村でした。
昭和3年(1928)に林学者本多静六が槻川の槻川橋付近の景観を見て京都の嵐山に似ていると「武
蔵嵐山・嵐山渓谷」と称したことにより嵐山(らんざん)という言葉を使うようになった。
昭和42年(1967)4月15日、菅谷村は町制施行し町名を「嵐山町(らんざんまち)」としました。




二ノ郭の土塁上に建っている竹筋コンクリート製の畠山重忠像 確かに鎌倉の方を向いています




嵐山史跡の博物館 裏側と言うと失礼になるので玄関がある方じゃない方と言っておきましょう

観覧日:令和5年(2023)3月30日(木)