八王子市由木にある「由木城跡」を訪ねて来ました。
由木城は大石定久の居館跡と伝わるもので、永林寺の裏手にあったとされます。
元々、由木城は鎌倉時代に由木氏が居館を構えたところと言われ、その後、長井氏、大江氏、大石氏へと支配が移っていった
ようですが、中々、ややこしい。
大石定久は、高月城主大石定重の嫡男で、大永元年(1521)、大石定重は滝山城を築き、定久は滝山城に移ることになり、
叔父である一種長純大和尚に城地を譲りました。その地に1532年に永鱗寺(永林寺)が創建されました。
後に定久は、北条氏照を婿養子に迎えましたが、迎えたというよりは力をつけていた北条氏の勢力拡大のために送り込まれた
というのが正直なところではないでしょうか。
話しが逸れてしまいましたが、由木城跡の遺構はなく、本堂裏手に大石定久の墓、城跡碑、大石定久像があります。
永林寺境内 立派な大きなお寺です。
本堂右横に「由木城跡入口」の看板があります。
大石定久墓所
「大石源左衛門尉定久公墓所」説明板
”由木と浄福寺に城を持ち”浄福寺城って厳しい山城なんですよね!!
右三つ巴紋入りの屋根がある中央の墓(大名墓)が大石定久の墓です。左に室と思われる戒名が並記されていますが、これは
新しいものでしょう。その左にあるのが元の墓石のようです。
ところで、大石定久の家紋は「丸に三つ星紋」ですが、なぜ墓石屋根には「右三つ巴紋」が入っているのでしょう。「右三つ
巴紋」も大石氏の家紋の一つなのでしょうか?丸に三つ星と三つ巴は遠目では同じように見えます。それに、屋根の部分と墓
石本体の色が微妙に違って見えるのは錯覚でしょうか?もしかしたら・・・変な勘繰りはやめておきましょう。
両脇に各4基の墓がありますが、これらが家臣の墓のようです(全部は入り切りませんでしたが)
墓地背後の高台に「由木城跡」の看板があります
多層搭、城址碑、大石定久公像が並んでいます
史蹟 由木城址碑
大石定久公像
斜めからアップで
鷹狩りの狩装束です。これと似たような銅像をどこかで見た覚えが。そう、川越市役所前にある太田道灌の銅像です。
定久は弓を立てて持っていますが、道灌は弓を横にして持っています。
遺構はないとのことですが一応城址碑、銅像背後の山林を見てみました。
これらを見て遺構だと肯定してしまう方もいるようです。まあ、遺構であってほしいという気持ちを分らないでもないですが、
大体の場合、私は否定してますが、ここも否定します(ひねくれ者と言われようとも)
多少は手を加えてあるようですが、やはりただの山林ですね。
下馬 なぜこんなところに下馬の石標があるのでしょうか?
城館跡が社寺にあった場合、普段ですと社寺の建物を紹介しながら城跡へと進むのですが、この永林寺にあっては2,3枚の
写真を挿入するだけでは勿体ないほどのお寺でした。依って、今回は城跡とは別に、後日、別カテゴリー(神社仏閣)で永林
寺を紹介してみようと思いますので、ここでは境内の写真を1枚だけに留めました。
散策日:平成30年(2018)5月28日(月)