四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

別府城跡-東別府神社-(埼玉県熊谷市)

2017年01月30日 | 100名城以外の城館跡


熊谷市東別所777・778に所在する「別府城跡」を訪ねてきました。現在、この跡地は「東別府神社」(勧請時の社名は春日神社)の境内となっています。
ここの城跡も名称についても書物によってまちまちであり、東方200メートル程の所にある香林寺のある場所を「別府城跡」とする記述もあるようです。
しかし、大方では当地を別府城跡としており、埼玉県においても「別府城跡」の名称で史跡指定しております。

成田助隆の次男次郎行隆がここ別府に住み別府氏を名乗りました。息子の代に東別府氏と西別府氏に分かれ、数代相対して領地し、それぞれ城(館)を構えました。
この別府城跡は、東別府氏が居館として築いた城館で、豊臣秀吉の天正18年(1590)の小田原攻めの際、敗軍に付いたことから家禄を没収され廃城になったとのことです。

城跡を囲む土塁・空堀は一部改変されてはいますが良好な形で遺っており、私的には、久しぶりに土塁・空堀らしい土塁・空堀に出会えた感じがします。




別府城跡を訪ねる目安となる東別府神社の社号標の石柱 右側の道路を北進すると東別府神社境内(別府城跡)に




東別府神社境内(別府城跡)出入り口  虎口跡と思われます(南側虎口)
高さはありませんが左右両側に土塁が見えます




境内に入ってすぐの左手にある東別府神社の一の鳥居




鳥居後方にある「別府城跡」の石碑




高さわずかな土塁の上に建つ「史蹟 東別府舘阯」とある石碑柱




こちらは「埼玉県指定史跡 別府城跡」の説明板
文面は、”この城跡は東別府家の館”で始まり、末尾では”東別府城も廃城になり”とあります。別府城跡なのか東別府城なのか?
上の石標では「東別府舘阯」 説明板では「別府城跡」と「東別府城」と二通りの呼び方をしています。
こうした統一性の欠如が城館名の呼び方に混乱を与えている一因でもあるようです。




一の鳥居とは90度向きを変えた二の鳥居 先に見えるのが東別府神社




東別府神社 拝殿




社号「東別府神社」の扁額・・・このブログの定番ですから




境内南西隅に鎮座する「神明社」 東方を向いています
社の南側・西側に土塁・空堀があります




神明社南側の空堀・土塁




南西隅の土塁は一段と高くなっています




西側の空堀・土塁を南方から北方に




西側の土塁の上を南方から北方に




西側の空堀・土塁を北方から南方に  左側の土塁の切れたところは虎口(西側虎口)




違い虎口になっているようです




境内から虎口を




西側虎口を入ったところにある石碑 碑文は「別府城址碑」とあります




西側空堀の更に西側にある道路の端にある「別府城跡」の標柱
側面に  平安時代から室町時代にわたる別府氏の居館跡で、高さ約2mの土塁と幅約5mの堀に中世豪族屋敷の姿をみることができます。 とあり




北側の空堀・土塁を西方から東方に




北側の空堀の堀底  西方から東方に




北側の空堀・土塁を東方から西方に




同上




北側の土塁の上を東方から西方に




東側・空堀・土塁を北方から南方に
土塁と空堀の境目に排水溝が作られているため二段の土塁に変形しています
排水溝の所は「犬走り」と見立てておきましょうか・・・




東側の空堀・土塁を南方から北方に




虎口(東側虎口)




東側虎口から境内を




南側東部分の土塁上を西方から東方に




南側東寄りの土塁 だいぶ消滅しています  (この写真には碑が邪魔でした)
左側(境内南東部分)はゲートボール場になっています




境内北東部分 一応庭園になっています




北側土塁の境内側に鎮座する境内社




最後に境内を

散策日:2017年(平成29年)1月25日(水)・28日(土)

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