上里町金久保地内に「金窪城跡」(別名太瑯〔たや〕城)があるということは以前から知っていました。また、土塁以外の遺構は無いに等しいとのこともそれなりに知識としてありました。
そんな金窪城跡を訪ねてみることにしたものの、所在地が上里町金久保内出とまでしかわからず地番までは分りませんでした。まあ、金久保地内に行けば何とか
見つかるのではないかと例の如く甘い考えで出かけたことに加えて方向音痴を特技としていることから、目標とされる施設さえ見つけられず、何度も同じ道を徘徊する羽目に
(わが愛車に取り付けてあるナビには金窪城跡は登録されていませんし、使用者同様にだいぶ回路が狂ってきたようですので・・・恥ずかしいですね)。
そんなことで2度ほど人にお聞きして何とか辿り着いた次第ですが、とにかくわかり難いところにありました。過去にも、いくら探しても見つからず諦めて帰ってきた城跡が幾つかありますが。
この標識を目にした時の気持ちは何とも言えません あちらこちら回った挙句に諦めて帰ることにならずにすみましたから
このあたり一帯が金窪城跡のようですが、城跡碑があるのみで土塁跡であろうと言われるところ以外の遺構はないようです。
碑の立つ場所と道路を挟んだ所は「金窪城跡公園」となっており、この写真はその城跡公園から撮ったものです。
道路より一段高くなっているこの一角に城跡碑と説明板が建っています。
しかも、こんな狭いところに碑が2基必要とも思われませんが?
生垣で隠れてしまっていますが、手前の柱状の碑は下部に 入口 と入っています。
入口(階段)に近い方にありますから入口と言えば入り口ではあるのですが必要か?
城跡碑の背後に説明板が放置状態であります 以前は鋼管の柵に取り付けられていたようですが落ちたのか外されたのか無残な形に。
右手には、かつては埼玉県のあちらこちらで見かける高札の形の茶色の説明板があったようですが新しいものに変わっていました。
碑をよく見ると「史蹟 金窪館阯」となっています てっきり金窪城跡とあるとばかり思っていたのですが、「城」でなく「館」として表現していことに、このブログを書き始めた今気付きました。
更に、色々な方のブログ等をあらためて覗かせていただいたところ、手前にある「史蹟 金窪館阯 入口」とあるものは、所謂「碑」ではなく、
史蹟金窪館阯への案内標柱であったようで、古い記事のブログではこの標柱が県道沿いの建っている写真。そして、ここには城跡碑1基と説明板しか写っていない写真が掲載されていました。
つまり、本来は案内標柱であったものをここ移したということで、碑を2基建てたわけではなかったようです。
また、この金窪城が出来たころは、館と城とに違いはほとんどないことから、以前は、「金窪館阯」と標記し、最近に至って「金窪城跡」と標記するようになったものと考えらえます。
放置状態の説明板 まだ十分に判読できますが古いからと言うことでしょうか?
昭和十年三月 埼玉県指定史跡となった と強調して書かれています かなりの規模の城跡でも史跡指定がなかったり、あっても市町村指定や旧跡扱いの所が多いですが、
この金窪城跡は遺構がないに等しいにも拘らず県指定史跡です。規模や遺構云々もさることながら歴史的背景や価値が重要なのでしょうね(素人判断です)
以前の茶色の説明板に変わって、最近?建てられた説明板
背後にはしっかりと鋼管の柵が これがないと遺構探しに私有地に無断侵入するお城マニアがいないとも限りません。真のお城好きにはそんな輩はいないと信じていますが。
正面から撮ってみましたが、新しく艶があることから風景が映っています(写真を撮る誰かの姿がなるべくわからないように撮ってみましたが)
このままですと文字が小さく読みづらいので、いつものように・・・
金窪城趾 ■ 1962年10月1日指定 ■ 埼玉県指定史跡
とありますが、放置状態の白色の案内板では、昭和10年3月 埼玉県指定史跡になった とありますが、1962年(昭和37年)と1935年(昭和10年)では全く違いますが
正しいのは・・・現段階で埼玉県指定史跡であるから何の影響もありませんけれど
更に略図では「金久保城跡」とあります。「趾」と「阯」・「址」・「跡」は同じですから問題ありませんが、「金久保」と「金窪」では・・・? すみません粗探しばかりしているようで
(2022.1.26追記)
指定関係について確認してみましたら、放置されている看板にあるよう昭和10年(1935)2月31日に埼玉県指定史跡に指定されましたが、昭和37年(1962)10月1日に、埼玉県指定旧跡に指定替えになっていますので、正しくは指定旧跡です。しかし、ここに限らず旧跡指定であるにもかかわらず史跡指定と表記しているところが多々あります。旧跡では馴染みがないから?
これを読めば金窪城の歴史が分ります。
斉藤実盛の名がありますが、斉藤実盛って大蔵合戦(嵐山町)のおり、源義平(悪源太)から殺害の命が出ていた、当時2歳の駒王丸(後の木曽義仲)を
畠山重能(重忠の父)と共に木曽に逃し、駒王丸の命を守ったというあの斉藤さんですよね。決して、トレンディエンジェルの「斉藤さん」ではないですよね。
川窪信俊の名もありますが、川窪信俊って武田信玄の弟、武田信実の子で、父の追善と一族の菩提寺とするため、小川町にあった安養寺を廃し、輪禅寺を建立した方ですね。
最後に、陽の当たる碑のある場所から撮った金窪城跡公園の写真を掲載して金窪城跡攻城(散策)記を終わりにしたいと思います。最後まで読んでいただきた多謝です。
散策日:2016(平成28)年12月19日(月)