四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

川口氏館(東京都八王子市)

2018年07月16日 | 100名城以外の城館跡


東京都八王子市川口地内に、武蔵七党のひとつ西党に属す川口氏(川口兵庫介)の館跡があるとのことで訪ねてみました。
館跡周辺は畑や住宅となっており遺構は遺されておりませんが、館跡には地元篤志家によって碑が建立されています。




秋川街道を八王子市街からあきる野市方面に進行、「川口中学校入口」信号の左側に川口兵庫介館趾入口がありますが、八王
子市街方面からしてきた場合は鋭角に細い坂道を上がらなければならず、危険を伴いますので、反対車線から右折で侵入した
方が無難でしょう。または反対側にある川口川の橋を渡って右側の川沿いの路肩に駐車して徒歩で行くのが良いかと。




「史蹟川口兵庫介館趾入口」とある石標(道標) 




石標(道標)脇の坂道を登ります




あっという間に丘の頂に着きました  立派な大きな石碑(標柱)が目の前に




「史蹟 川口兵庫介館趾」石碑と川口氏館の歴史が刻まれた石碑が並んで建立されています




「史蹟 川口兵庫介館趾」石碑の側面と裏面




碑文  写真のアップで済ませようとしたのですが、読みにくいようなので転記しておきます

調井台と呼ばれるこの丘には中世の頃 豪族として栄えた川口氏の館があった 川口氏は武蔵七党の西党に属し草創の鎌倉幕
府に貢献した 川口氏は応永年間兵庫介幸季の時代に最も繁栄した 
南北朝室町戦国時代へと歴史は移り 関東は戦乱の時代をむかえた 川口氏も一党を率いて関東の山野に戦い 管領上杉氏の
争いには扇谷定正の幕下にあって勢威を振るい 山内顕定と対峙した やがて武相の覇権は大石氏から後北条へと移り 隆盛
を極めた川口氏も歴史の波に埋没していった しかしその事蹟は今に残り 圓福寺の寺宝大般若経奥書に願主兵庫介幸季の名
が見られる これは大幡宝生寺の住職明鑁らの書写に依り 鳥栖寺へ納められたものである 又長楽寺の都重要文化財薬師如
来像や 度重なる火災を免れて現存する 栖観音などに往時の繁栄を偲ぶことができる 
宅地化に景観が失われつつある昨今 郷土の歴史を後世に伝えたく 嘗て川口一族を涵養し法蓮寺を望むこの丘に 有志相計
り館跡碑を建立する                             昭和56年5月




石碑の裏面には川口氏系譜が刻まれています

川口氏は平安時代に西次郎宗貞の孫・次郎大夫信久(のぶひさ)がこの地に居を構えて「川口」氏を名乗ったのが始まり(川
口氏の始祖)とされるようで、これを見ると兵庫介幸季は11代です。




川口兵庫介館跡建碑委員会会員芳名
地元の方や関係者の方でしょうが、これだけの賛同者がいるということは川口氏の人徳とともに地元の誇りなのでしょう。




標柱、石碑の前や周りは畑で館跡の遺構はありませんが、石碑が建立されたことによって、ここに川口兵庫介館があったこと
の証しとして遺り続けることでしょう。




最後に標柱、石碑の後ろから

散策日:平成30年(2018)6月2日(土)

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