四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

油井城(埼玉県加須市)

2018年05月08日 | 100名城以外の城館跡


城 名:油井城(ゆいじょう)
別 名:鐘撞山・鐘撞山城・油井ヶ島城
形 態:平城
時 期:戦国時代
城 主:猪俣小平六範綱
遺 構:郭・土塁・水堀・空堀
指 定:市指定史跡(鐘撞山 昭和31年(1956)9月24日指定)
現 状:山林
所在地:埼玉県加須市油井ケ島

加須市指定史跡 鐘撞山
鐘撞山は南東に沼を控えた平城で要害の地となっていた。約2万6千4百平方メートルの面積を残し、土塁・空堀・水堀の一部
が現存している。『新編武蔵風土記稿』に「相伝ふ猪俣小平太則綱が城蹟と云、鐘つき山と呼ぶ、今は山もなく、陸田となりて、
城跡のさまは見えず」とあり、築城した人物や年代等は明らかではない。鐘撞山の攻防については永禄6年(1563)、上杉
謙信が松山城救援のため出陣したがおよばず、転じて北条方の騎西城を攻めた時、この鐘撞山も同時に攻撃された。攻撃が急だ
ったので、館中の兵はしきりに鐘を鳴らし騎西城に救いを求めたが、騎西城も謙信の本隊に攻められていたので鐘撞山を救援す
ることができず、館兵は甲冑兵器を丘に埋めて逃れたという(「鐘撞山之記」)。さらにここから矢の根・鉄砲の玉・大身槍・
陣鍋が掘り出された。 
昭和56年12月1日    加須市教育委員会                        (現地説明板より)

油井城(鐘撞山)は、加須地内でも掻き上げ田地帯の「浮島」で名高い水深地内に存在し、周辺一帯は深田地帯となっている。

城跡の土地・屋敷は、平成16年6月に地主さんが「史跡を生かした整備をして欲しい」と、加須市に寄贈しています。
しかしながら、整備がなされた様子は見られず(14年も経過した現在も、整備活用計画を検討中でしょうか?)、周囲は杭と
ロープで立ち入り禁止の措置をとっているだけで、遺構の堀や土塁は荒れたままの藪状態です。




地図に色付けした部分が城跡(正確ではありませんが)の範囲です。更に記号等を加筆してあります。
方位が45度ほどずれているため便宜上標柱のあるNからDのラインを北側として写真の説明して行きたいと思います。
なお、立ち入り禁止のため、すべてロープの外側からの撮影であることは言うまでもありませんし、記憶不確かなため説明地
点に間違いがあるかもしれないことを先に断っておきます。




標柱 色褪せて文字が見えなくなっていますが、城館跡を訪ねる際の目標物ですからあるだけでもましです。 (A)




標柱の所から空堀を南方に見ています (A → B)




上掲の写真の逆方向  (B → A)




碑が建っている山(丘にも満たない)のある郭跡を  (Bから)




説明板  この内容を冒頭に記載しました




説明板のある郭跡と北側の田んぼの境にある空堀  (B → C)




上掲の写真の逆方向  (C → B)




北側の空堀  西方から東方に見ています  (A → D)




北側の空堀 上掲の写真の逆方向  (D → A)




北側の藪の中にちょっとだけ見える土塁




東側の土塁と水堀  北方から南方に見ています  (D → E)




東側の土塁と水堀  掲の写真の逆方向  (E → D)




土塁と住宅の間の切れ目から少しだけ見える元の屋敷内  建物は朽ちているようです




屋敷門   (Fから)




上氏から寄贈を受けた土地建物についての説明板




屋敷門をアップで  門の前まで行けば屋敷内が覗けたかもしれませんが、そこまで気が回りませんでしたし、近づいてはい
けないとも思いましたので。




東側 (門の右側)  (F → G)




立ち入り禁止の立札  (G)




立ち入り禁止の立札のある所から見た水堀




GからH方向へ2~3m程いった地点から見た水堀




HからD方向へ延びる水堀 写真左側が碑が建っている郭跡、右側が屋敷のある郭跡 郭と郭の間に橋が見えます。 




HとIの中間あたりから見た碑が建っている場所




西側から見た碑が建っている場所  (Jから)




Jから若干C方向に移動して碑を撮ったものの碑文が読めるどころか形さえも満足に撮れませんでした。




更にC方向に進んで撮ってみましたが、今度は木立に隠れて碑自体が見えません。




城跡の周りから離れて  南側から見た遠景  写真右端が門入口 (Kから)




同じく南側から見た遠景 (Lから)




北西から見た遠景 碑が建っている郭跡方向を中心に (Nから)




北側から見た遠景 (Oから)




北西から見た遠景 屋敷のある郭跡方向を中心に (Nから)

今残る縄張や遺構が鐘を鳴らして騎西城に援軍を求めた当時のものかは分りません。その後ここに居を構えた者の時代のもの
かもしれませんが、何れにせよ近世のものではなく中世期の遺構であることは間違いないでしょう。

この油井城跡(鐘撞山)の東方僅かなところ油井ケ島集落の中心部に神宮寺や八幡社があります。これら社寺と油井城との関
係はないようですが訪ねてみました。




神宮寺 参道左側に「神宮寺」の社号標の石柱が建っています。神宮という名のお寺 更に山号は八幡山 併せて八幡神宮 
一瞬神社かと(は思いませんでしたが)  隣には八幡神社がありややこしい(勝手にややこしくしたいだけですが)




「加須市指定有形文化財 神宮寺の青石塔婆」標柱




山門と「あみだ堂」




山門脇の青石塔婆が納められた「あみだ堂」




「神宮寺の青石塔婆」説明板
中に油井城に触れた記述がありますが、神宮寺との関係についてはありません。




あみだ堂の小さな窓から中の青石塔婆を




本堂




八幡社  神宮寺とは地続きですので神宮寺を参拝しここちら八幡社を参拝しないわけにはいかないでしょう。




二の鳥居と社殿

散策日:平成30年(2018)4月15日(日)

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。