
伝 鎌 倉 街 道 鎌倉幕府の成立とともに整備された鎌倉街道は鎌倉と関東諸国・信濃・陸奥とを結んだ歴史の 道として知られています。かつての鎌倉街道には、上道・中道・下道の幹線とそこから派生する 大小の枝道が発達していました。 北本市内の西部には、古くから鎌倉街道と伝わる古街道が南北に通っています。 この街道は中道から枝分かれして荒川沿岸を北上し、群馬県へと通じる上野道と考えられてお り、支道としての役割を果たしていたようです。 街道沿いには中世の城館跡や寺院等の文化財が数多く存在し、歴史的に重要な街道であったこ とがうかがえます。 この街道のルートは、上尾市の平方から桶川市の川田谷をへて、市内では庚塚(芭蕉句碑)─ 石戸宿─須賀神社・氷川神社─ 道標「これより石と舟とミち」 ─鉄砲宿を結んでいたと伝えられて います。 平成29年12月 北本市 北本市教育委員会 |
上記内容のように、埼玉県北本市に鎌倉街道中道の枝道ではないかと伝わる道筋があるとのことか
ら散策して来ました。

道標「これより石と舟とミち」

標柱【 市指定歴史資料 道標「これより石と舟とみち」】

市指定歴史資料 道標「これより石と舟とみち」 昭和53年3月15日指定 この道標は、享保12年(1727)に、馬室(鴻巣市)から石戸宿へ通じる、鎌倉街道と伝 えられる道沿いに建立されたものである。 (銘文) 正 面 西 たかお舟とみち 北 かうのすミち 裏 面 高尾村 享保十二未天四月吉日 新井平兵衛 左側面 左川越道 右側面 これより石と舟とミち ここでいう「石と舟と」とは「石戸河岸」のことである。 荒川は、江戸時代から大正時代頃までの長い間、舟運が栄えていたが、この道標は、その河岸 の存在を示す貴重な資料である。 現在、実物は北本市教育委員会で保管している。 平成6年3月 北本市教育委員会 |

正 面: 西 たかお舟とみち
北 かうのすミち
左側面: 左川越道

裏 面: 高尾村
享保十二未天四月吉日
新井平兵衛
右側面: これより石と舟とミち

道標のある場所から「伝鎌倉街道」を石戸宿方向に向かいます(途中までですが、説明板の道順と
は逆順になります)
⇒印の所に「伝鎌倉街道」説明板が立っています

⇐ 庚塚(芭蕉句碑) 鉄砲宿・鴻巣 ⇒
鎌倉街道

「伝鎌倉街道」説明板の前をそのまま進行します

アジサイが咲いているカーブをそのまま右に折れます

氷川神社(高尾氷川神社)
氷川神社脇の道路下に厳島神社(弁天社)がありますが写真は省略

須賀神社

北向き地蔵
説明板の写真をアップしても褪色が激しく判読できませんので内容を転記します
北 向 き 地 蔵 所在地 北本市大字高尾 「北向き地蔵」と呼ばれるこの地蔵尊は、願い事を叶えてくれる地蔵として有名で、泥の団子 を供えて願い事をし、願いが叶ったら、御礼に米の団子を上げるという信仰が現在も続いている。 銘文によれば、享保十四年(一七二九年)に「万人講中」によって建立され、道しるべも兼ね ていることがわかる。 なお、市内でも高尾地区は、地蔵尊が比較的多く建立されていた所で、これは、万人講中とい う信仰集団の存在が強く影響していたものと思われる。 〔銘文〕 正 面 享保十四己酉四月吉日 万人講中 武州石戸領高尾村 右 石戸道 左 鴻巣道 左側面 奉造立石地蔵尊万人講中為現当 二世安楽也功徳云者……(以下省略) 右側面 金子広吉再建 願主 金子利助 昭和六十三年三月 埼玉県 北本市 |

「北向き地蔵」を過ぎて少しした右側に「宮岡公会堂」があり、その脇に『伝鎌倉街道』説明板が
立っています。 ※進行方向と逆向きで撮ったものです。

『伝鎌倉街道』説明板
平成18年3月 北本市・北本市教育委員会建立のもので、色褪せていますので読むとなると苦労し
ますが、文面は、冒頭の説明板と書きだしが若干違うだけであとは同じです。

突き当りを左折しますと、「高尾保育園」があり、県道33号線に出ます。
散策日:令和2年(2020)5月30日(土)