各地より鎌倉に至る道を『鎌倉街道』と呼んでいますが、この呼び方は後世にできたようです。
鎌倉街道という名が残っていてもその往時の姿を見ることが出来なかったり、道筋そのものが分
らなくなっているのが大半かも知れません。
現在の深谷市内に鎌倉街道上道の本道(児玉道)から分岐した「本庄道」は『榛沢瀬』(はんざわせ)
とも呼ばれる街道ですが、その一部が残っているとのことから探索して来ました。
深谷市の広報誌『広報ふかや』2023年2月号に掲載された【畠山重忠を知る ⑭深谷に残る古道】
水色のラインを引いた個所は、「赤浜天神沢遺跡」と称される掘割状の鎌倉街道上道で、文化庁選定「歴史の
道百選」の №24鎌倉街道―上道(埼玉県小川町・寄居町・毛呂山町)で選定されている場所です。
この場所は、深谷市畠山(旧大里郡川本町畠山・元畠山村)と大里郡寄居町赤浜・元赤浜村との境にあります。
茶色のラインを引いた個所は、上道の支道の伝承路線で「上敷免地内の鎌倉街道」としています。
この伝承路線は現在は同じ深谷市ですが、旧幡羅郡(幡羅郡明戸村)と旧榛沢郡(榛原郡大寄村上敷免)の郡境
とほぼ重なっています
そして今回探索して来たのが、オレンジ色・緑色のラインを引いた個所の『榛沢瀬』(はんざわせ)と呼ばれる
路線です。
この榛沢瀬の街道遺構は戦前まで山林として旧状を留めていたそうですが、戦後の土地解放や圃場整備事業等で
その姿を留めていません。【畠山重忠を知る ⑭深谷に残る古道】では触れられていませんが、鎌倉街道を扱っ
た某サイトによれば僅かに一部の遺構が認められ、 遺構を調査してみると「歴史の道百選」№24鎌倉街道―上道
(埼玉県小川町・寄居町・毛呂山町)の遺構とほぼ一致することがわかったそうです。とあります。
ということで今回はこの『榛沢瀬』の探索となった次第です。
地図に鎌倉街道・榛沢瀬の道筋を書き込んでみましたが、これはあくまで方向を示すためのものです。
右下の「掘割状遺構」と記した所が「赤浜天神沢遺跡」で、山王坂を下り「赤岩の渡」で荒川左岸に渡河し、荒
川沿いに西方に進む道が鎌倉街道上道の本道で児玉道と言われる。「お茶々の井戸」まで行ってところで川沿い
を離れて北上する。
一方、渡河した地点で本道から分岐しそのまま北上する道が「榛沢瀬」で、本庄方面に向かうことから本庄道と
言われます。
探し当てたこの竹林の所が、建久4年(1193)3月、征夷大将軍頼朝が榛沢瀬左衛門なる者に築かせた榛沢瀬の遺
構のようです(確証はありませんが)。榛沢瀬は、沿道の住民を駆使して荒川の河岸から岡部町榛沢村(現・深
谷市)の辺りまで両側に七、八尺の高土手を備えた道幅3間、 土手敷各3間、総幅員9間ほどの道を築いたと伝え
られます。
道路に便宜上境界線を入れてみました。
現在は同じ深谷市(旧・花園町)ですが、この道を境にして元の「黒田村」と「荒川村」になります。ここが往
時のままの道筋かどうかは分りませんが、鎌倉街道と呼ばれる道は、村境の道に築かれることが多く、この竹林
も村境にあることから榛沢瀬の遺構とみてよいかもしれません。
この写真は上の写真の反対方向から
深谷市針ヶ谷(旧・:岡部町)地内の鎌倉街道(榛沢瀬)と伝わる場所…黄色のラインを入れたあたり
地図を見てもわかる通り農地区画整理がされており、旧道の姿を留めておりませんので、弘光寺西側の鎌倉街道
がどのように延びていたかはわかりません。
伝・鎌倉街道を南方から見た状況 全く鎌倉街道を想像させない現代の道と化しています
左側に本郷小学校 右の斜めに入る道が弘光寺参道
上の写真の反対方向 北方から
散策日:令和5年(2023)4月9日(日)