四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

北浅羽桜堤公園の安行寒桜(埼玉県坂戸市)

2021年03月11日 | 花・鳥・風景


坂戸市の北浅羽桜堤公園の安行寒桜(別名:大寒桜)が咲いたという情報がありましたので行って
きました。
市内を流れる越辺川沿いに総延長1200mにわたり約200本の「安行寒桜」の桜並木が植樹されてい
ます。
満開にはまだ少し早いようでしたし、だいぶ強い風が吹いていましたがそれなりに楽しめました。
今年はコロナ禍の影響で桜の見頃の時期にあわせて開催される「坂戸にっさい桜まつり」が中止に
なっています。




















散策日:令和3年(2021)3月10日(水)

西大沢神社の芭蕉句碑(埼玉県美里町)

2021年03月09日 | 歌碑・句碑


 句 : 川上と この川下や 月の友
     (かわかみと このかわしもや つきのとも)

出 典: 『続猿蓑』 元禄6年(1693)秋 芭蕉50歳の時の句
所在地:埼玉県児玉郡美里町白石353 西大沢神社 
建立日:不詳
建立者:不詳




西大沢神社




芭蕉の句碑は神社境内北端に建立されています
句碑の背後から社殿方向を

散策日:令和3年(2021)2月28日(日)

光厳寺の芭蕉句碑(埼玉県深谷市)

2021年03月08日 | 歌碑・句碑


 句 : 御命講 油のような 酒五升
    (おめいこや あぶらのような さけごしょう)

出 典: 『芭蕉庵小文庫』  元禄5年(1692 )芭蕉49歳の時の句
所在地:埼玉県深谷市上柴町西6丁目(旧・深谷市) 如日山 光厳寺
建立日:明治33年(1900)12月
建立者:素梅他2名




碑陰  陰刻が認められるが判読は厳しい




光厳寺山門  山号を「如日山」と号す日蓮宗のお寺




本堂左手にある【鬼子母神堂】の脇に句碑は建立されています

散策日:令和3年(2021)2月19日(金)

明戸 地蔵堂の芭蕉句碑(埼玉県深谷市)

2021年03月07日 | 歌碑・句碑


 句 : 蓬莱に 聞かばや伊勢の 初便
    (ほうらいに きかばやいせの はつだより)

出 典: 『炭俵』 元禄7年(1694)芭蕉51歳の時の句
所在地:埼玉県深谷市明戸(旧・深谷市) 地蔵堂(国道17号深谷バイパス沿)
建立年:明治20年(1887)以前
建立者:市川市月、桜井梅室




地蔵堂




句碑の建つ場所
句碑の後方に見えるのが国道17号深谷バイパス

散策日:令和3年(2021)2月19日(金)

古寺鍾乳洞(埼玉県小川町)

2021年03月06日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:古寺鍾乳洞(ふるてらしょうにゅうどう)
形 態;横穴型鍾乳洞
時 代:-
指 定:埼玉県指定天然記念物(名称:古寺鍾乳洞 昭和11年〔1936〕3月31日指定)
現 状:閉鎖中
所在地:埼玉県比企郡小川町下古寺

小川町からときがわ町に至る道筋のひとつに【松郷峠】越えがありますが、松郷峠に向い、下古寺
地内にある清酒『帝松』の蔵元を少し過ぎた右側の路傍に、
     【埼玉県指定天然記念物 古寺鍾乳洞 入口】
と陰刻された石標柱が建っています。
 この『古寺鍾乳洞』は、槻川の支流金嶽川の左岸にある秩父層群中の石灰岩の崖に開口する横穴
型鍾乳洞で、長さ約50m、総延長約220m、高さ1~6mと規模の大きなもの。江戸時代から「名所」
と知られ、昭和11年(1936)3月31日埼玉県の天然記念物に指定された観光洞でしたが、半世紀前
の昭和45年(1970)に地権者が洞内保存の為に開口部を塞ぎ入洞禁止の措置を採ったため、見学で
きなくなってしまいました。(指定は継続しています)
 古寺鍾乳洞の存在は、まだ見学可能なころから知っていましたが、実際に訪ねたことはありませ
んでした。
 見学はできなくも、せめてどんな場所かだけは確認してみたくなり付近まで行ったものの発見で
きず帰って来たのが5年8ヶ月も前のことでした。
 そして今回再挑戦してみました。




【古寺鍾乳洞 入口】の標柱の右側の道を歩いていくと金嶽川に突き当たります
対岸の山中腹に「天満天神社」が鎮座しています 前回もお参りしましたが今回もまずはお詣り




金嶽川に架かるこの小さな橋を渡ると参道に直結しています




「天満天神社」は社号標から旧社格が《村社》とわかりましたが、それ以外の創建等は調べても
分りませんでした。
ただ、祭神は社号からして【菅原道真】のようで、手水石にも【梅鉢紋(加賀梅鉢)】が入ってい
ました。神社の写真もそれなりに撮ってきましたが、あまり載せてしまうと主体が変ってしまいま
すので。




『古寺鍾乳洞』です
やっと探し当てました。当初は予想していたところに見当たらず、今回も諦めて帰ってこようと思
ったものの更に広範囲(と言えるかどうか?)に探してどうにか発見。




ここまでこれでは入りたくも入れません(無論入るつもりもありませんが)




鉄の格子から覗いてみました
だいぶ泥で埋まっていますが 自然なのか侵入防止の措置なのか




石灯籠 正面には【埼玉懸指定 天然記念物  記念燈籠】
    左側面には【窟内名所 敬慎門 洗心荘 ・・・ 昭和十年九月命名】
とあります 窟内の各所に名を付けたのですね

なお、この鍾乳洞を含む約12,000㎡の土地を平成30年に所有者が小川町に寄付しましたので、将来
再び古寺鍾乳洞が観光洞に戻る可能性もありますね。

なお、現在、埼玉県にある観光洞は秩父市の「橋立鍾乳洞」のみです。

散策日:令和3年(2021)1月27日(水)

渋沢栄一翁ゆかりの血洗島諏訪神社(埼玉県深谷市)

2021年03月05日 | 神社仏閣


社 号:諏訪神社(すわじんじゃ)
通 称:血洗島 諏訪神社(ちあらいじま すわじんじゃ)
御祭神:建御名方神(たけみなかたのみこと)
創 建:不詳
社 格:旧村社 
例 祭:10月17日
指 定:-
鎮座地:埼玉県深谷市血洗島117-6

深谷市血洗島に鎮座する諏訪神社を参拝してきました。
血洗島 諏訪神社は、大河ドラマ「青天を衝く」や2024年度に刷新される一万円札の肖像画にも
決定している近代日本経済の父と称される渋沢栄一の生家「旧渋沢邸・中の家(なかんち)」か
ら5分ほどの距離にあり、渋沢栄一とも非常に関係の深い神社です。
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 諏訪神社は血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を
祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も、参拝したと伝えれれている。
 現在の拝殿は、大正五年(1916)渋沢栄一が喜寿を記念して造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に額づいた。そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時
に鑑賞することを楽しみとしていた。栄一が奨励したこの獅子舞は、現在も大事に受け継がれて
いる。
 境内には、栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
 なお、村民は栄一への報恩のため、建立した喜寿の碑が境内にある。
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拝殿前に置かれている参拝者向けリーフレット「諏訪神社」から抜粋転記




参道入口  社号標『村社 諏訪神社』とあり  右の建物は『社務所・血洗島ふれあい会館』




『一の鳥居」 明神鳥居です




『澁澤父子道遺顕彰碑』




『参道』




『二の鳥居』 両部鳥居です




立派な彫刻が施された屋根付きの扁額『諏訪神社』 澁澤榮一謹書




『諏訪神社』由緒




『手水舎』




『拝殿』
大正5年(1916)、渋沢栄一翁が喜寿を記念して造営寄進したもの
※賽銭箱の左側に諏訪神社のリーフレットが置かれている




拝殿前左手の『橘』
長女穂積歌子が父栄一のために植えたもの 脇にある碑はその由来を記したもの




『本殿』 拝殿とは繋がっていません




本殿扁額『諏訪神社 正四位勲二等男爵澁澤榮一謹書』とある 
渋沢栄一翁の揮毫による




『天満宮』




拝殿・本殿・天満宮を右後方から




『渋沢青淵翁喜寿碑』
栄一翁の喜寿を祝って諏訪神社の氏子中の拠金によって建立された
徳川慶久 題額、萩野由之 撰、坂正臣 書   ※徳川慶久は徳川慶喜の七男


        
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 題 額
澁 澤 青 淵 翁 喜 壽 碑
      公爵 徳川慶久題額
 碑 文
男爵澁澤青淵翁、今年七十七の高齢に達せられたるを以て、郷里なる八基村字血洗島の人々、碑を立てゝ翁の
徳を頌せんとして、余に文を求めらる。余訝り問ひて、翁の功績は甚大なり、村人の私すべき所ならんやとい
ふに、人々首打掉りて否々、吾村は武蔵平野の小村ながら、翁の如き大人物を出したるを誇とすべし。翁や青
年の頃村を去りて国家の為に奔走し、今は世界の偉人として内外に瞻仰せらるれども、我等は尚翁を吾村の父
老として親しみ慕ひ、翁も亦喜びて何くれと村の事に尽すを楽となせり。翁は嚮に八基小学校の新築と、其維
持法とに就きて、多くの援助を与へ、一村の子弟をして就学の便を得しめたり。村社諏訪神社は、翁が幼少の
時境内にて遊戯し、祭日には村の若者と共に、さゝらなど舞ひたる事あれば、村に帰れば先づ社に詣づるを例
とし、社殿の修理にも巨資を捐てゝ父老を奨励したり。今年は翁の喜寿に当りたれば、翁を迎へて彼のささら
を催しゝに、翁は記念として拝殿を造りて寄進したり、村人は此後春秋の告賽にも、子女の婚礼にも其便を得
て、敬神の念嚮学の風と相待ちて風俗の益敦厚ならんことを喜び合へり。翁が尊貴を忘れて郷閭に尽せる功徳
と情愛とは村人の深く感謝する所なりと。余此言を聞きて感じて曰く、微賤より起りて富貴を一身に聚めたる
人の草深き故郷を疎かにするは世の常なり、翁や世界の偉人として其故旧を忘れず、父老を敬ひ青年を導く、
大人にして赤子の心を失はずとは翁の謂なり、翁の行は社会の模範となすべく、翁の徳は伝へて天下の風気を
如し。翁の寿の九十に躋り百歳に至るは言はんも愚なり、後世翁の徳を聞きて感奮し、翁に継ぎて興る者あら
ば、翁は千歳にわたりて長へに生くべきなり。
  大正五年九月        
                文学博士 萩野由之撰
                     坂 正臣書

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拝殿前に置かれている参拝者向けリーフレット「澁 澤 青 淵 翁 喜 壽 碑」碑文を転記




『宮城遥拝所』




参道入口付近から見た血洗島 諏訪神社

参拝日:令和3年(2021)2月19日(金)

『弓の民族』・『埼玉の武者絵馬』

2021年03月04日 | エトセトラ


◇資料館ガイドブック12           
  『弓の民族』  A4判              
      発行 平成7年10月24日(1995)       
                    
◇資料館ガイドブック10
  『埼玉の武者絵馬』  B5判
      発行 平成6年3月25日(1994)
      
この2冊の冊子は、埼玉県県立嵐山史跡の博物館(埼玉県比企郡嵐山町菅谷 菅谷館跡内)が、
埼玉県立歴史資料館と称していたころに発行されたものです。
昨年12月、同館の企画展「戦国の比企 境目の城」を観覧に行った際に、所謂バックナンバーと
して販売されていたものを購入してきたものです。※同館はコロナ禍により現在休館中
『弓の民族』には、流鏑馬などの民族行事と弓。ときがわ町の「弓立山」の伝説など弓にまつわ
る伝説などが掲載されています。
発刊から四半世紀以上を経過していることから、当時のままばかりではないでしょうが、散策の
参考になりそうなところが何カ所ありましたので機会あったら訪ねてみようかと考えています。

エンエンワの上古寺氷川神社(埼玉県小川町)

2021年03月03日 | 神社仏閣


社 号:氷川神社( ひかわじんじゃ)
通 称:上古寺氷川神社
御祭神:・健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
    ・竒稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
    ・大那牟遅命(おおなむちのみこと)
創 建:斎明天皇5年(659年)
社 格:旧村社 
例 祭:10月第3日曜日  例大祭
指 定:町指定無形民俗文化財(名称:上古寺氷川神社のエンエンワ 平成13年〔2001〕8月23日指定)
鎮座地:埼玉県小川町上古寺566

『エンエンワ』って何だろう。と、石標に刻まれたのを見るたびに思っていましたが、そんな行事
が行われる小川町上古寺の氷川神社を訪ねてみました・・・2度目ですが・・・
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創建は、斎明天皇5年(659)に、役小角が都幾山から望んだ景色を賞で、かつ霊感を得たので祠
を建て、氷川神社(現在の武蔵一宮氷川神社)の分霊を勧請した。そして、自作の木彫りの神像
を奉安し、当地の繁栄鎮護の祈念を行ったと伝える。 秋の例大祭に行われる因縁和(圓圓和とも)
は、その発祥を鎌倉時代以前からとも、守邦親王が東王寺に寓していた時に比叡山に伝わる廷年
舞を模して行ったとも伝えられている。
                (埼玉県神社庁HP 「埼玉県の神社を探す」から一部抜粋)
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『エンエンワ』が行われる例大祭の日ではありませんでしたから、勿論、エンエンワは見られませ
んでしたが。




松郷峠に向う上古寺地内の路端に建つ「上古寺 氷川神社」の方向を示す標柱




標柱から200m強歩くと左方に氷川神社の鎮座する小高い山があります




参道入口(登り口)




コンクリートの石段を五つほど登ります




大鳥居(両部鳥居)まで来ました
鳥居の手前辺りから木の根が階段代わりになっています(ここに至る途中にもありましたが)




この先は木の根の階段のみです ちょっと歩きづらいですが




山頂の境内の若干下に「氷川神社のエンエンワ 中道廻りの順路」案内板が建っています




「氷川神社のエンエンワ 中道廻りの順路」案内板




中道を歩いてみました 倒木が道を塞いでいます(避ければ歩けますが)




拝殿正面の自然石を使った石段  左右に石灯籠が配されています(文化年間の建立)




『手水石』




境内




『代々椎』の切り株




山頂の境内に設置されれいる『氷川神社のエンエンワ』説明板
内容を下に転記しました
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 氷川神社のエンエンワ     大字上古寺
                         〔平成13年8月23日 町指定無形文化財〕

 氷川神社は、役小角(役行者)が小祠を建立し武蔵一宮氷川大神の分霊を勧請したことに始まると伝え
られている。御神体は木造神像で、製作時期は室町時代末期を下らない。また、境内からは中世の古瓦が
出土し境内の姥神社の御神体は鬼瓦であることから、中世には瓦葺の社殿が建立されていたと考えられる。 
 「オクンチ」といわれる当社の秋祭りでは、「中道廻り」という珍しい行事が行なわれる。先達が全国
60余州の一の宮の神々を唱えると氏子が「エンエンワー」と大声で唱和し、供物を空高く投げて宮地に供
えながら「中道」と呼ばれる唱道を一周する。八百万神を対象とした特徴的な神事であり、この祭りを「
エンエンワ(因縁和)」とも呼んでいる。 
 また、この地域を開発したとされる草分けの18戸の氏神を祀ったと考えられる御末社に、アオキの葉に
粳米から作った「シトギ」と赤飯、洗米・塩を入れた小皿、茅の箸を台付きの盆にのせ、地区の子どもが
献膳する。「̪シトギ」などのお供えの形態、装束や名称なども古い儀式を踏襲しており、地区全体でその
伝統をを保持し伝承するなど、地域に密着した無形民俗文化財として大変貴重である。
                                 小川町教育委員会

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『拝殿』




【氷川大明神】と揮毫された社号額(扁額)




社殿全体




拝殿の両脇にあるこの丸いものは何なのでしょう?




本殿覆殿の背面と両脇には18のはめ込みで神座があります(左右に各3、背面に12)
これが、この地域を開発したとされる草分けの18戸の氏神を祀ったと考えられる御末社と呼ばれる
もののようです




『稲荷社・天手長男社・姥神社』




『御嶽大神』




『雷電社』




冒頭の埼玉県神社庁HP「埼玉県の神社を探す」の抜粋文に出てくる守邦親王が寓していたという
『東王寺』です。
氷川神社から西方に直線距離にして約420mの場所にある現在は無住のお寺です。
守邦親王は鎌倉幕府最後の将軍(9代)で、元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡すると将軍職を辞
し、幕府滅亡後の3か月後に薨去したと伝えられていますが、その状況は全く不明とのことです。
そんなことから、守邦親王は幕府滅亡後、ときがわ町の慈光寺山麓にあたる上古寺のこの東王寺に
寓し、更に小川町大塚の梅香岡に仮寓し、八幡神社を勧請したという伝承があります。
あくまで伝説の域を出ない話かとは思いますが、ここ上古寺氷川神社とも関係あるような話があった
とは知りませんでした。
余談ですが、この東王寺の写真は上記の守邦親王伝説の話の中に書くつもりで1年半以上も前に撮っ
てあったものですが、結局は東王寺については触れずにいましたので、この写真は宙に浮いた状態に
なっていました。今回、こうした形ではありますが、東王寺の写真をこじつけで使ってみた次第です。

参拝日:令和3年(2021)1月16日(土)

岩松院の一茶句碑(長野県小布施町)

2021年03月02日 | 歌碑・句碑


句 :  痩かへる まけるな一茶 是に有
    (やせ蛙 負けるな 一茶 これにあり)

出 典: 『七番日記』(文化13年〔1816〕)
所在地:長野県上高井郡小布施町雁田604  岩松院
建立者:ー

文化13年(18126)4月20日、一茶が岩松院を訪れ、蛙合戦を見て詠んだ句だそうで、一茶直筆に
よる句碑とのこと。




一茶の句碑がある『梅洞山岩松院』
左側に仁王門 右側に本堂
岩松院は文明4年(1472)創建の古刹で本堂の天井に葛飾北斎が描いた21畳分の大きさの『八方睨
み鳳凰図』は有名です。
また、豊臣秀吉の親類で賤ヶ岳の七本槍のひとりで戦国時代後期の代表的な猛将福島正則のお墓は
この岩松院にあります。
そして、小林一茶ということで岩松院は系統の全く違う3人の有名人と関わりを持っています。




本堂裏にある庭園 中央に一茶の句碑が見えます




岩松院にある小林一茶が病弱な初児 千太郎を想って句を詠んだ「蛙合戦の池」

この「やせ蛙 負けるな 一茶 ・・・」の句はここ岩松院で詠んだというのが定説になっていますが、
東京都足立区にある某お寺もそのお寺で詠んだものと言っているようです・・・

散策日:平成21年(2009)9月21日(月)

なぜ今頃と言わないで下さい。福島正則公の霊廟については過去に投稿していますが一茶の句碑を
載せていませんでしたので今更ながら・・・