空海(弘法)がいいかげんな証拠がある。
いくつもある。
「弘法も筆の誤り」というのがある。
名人でも間違えるという意味にとられている。
でも、それも間違いだ。
空海は元々いいかげんなのだ。
点が一つ抜けていても気にしない。
それが天皇から命令されて書いたモノでも。
だが、周りはウルサイ。
「弘法が字を間違えたぁぁ~」
点一つくらい、どうでもいいじゃん!
「よくない、よくない、よくない!!」
頭の固いマジメ人間が多い中、空海は苦笑した。
あ~、うるせぇ。今、直してやるよ。
そして、筆を投げつけた。
ストライク!
「お見事!さすが、弘法!」
(さっき、ワシをけなしてたじゃん!)
字なんざァ、まぁ読めれば充分だぁ。
颯爽と背を向ける空海はカッコイイ!
つまらん事にこだわるなよ。
空海は生き方でそれを示した。
書でそれを示していた。
偶然に訪れた奈良。
ワシは1200年前の空海と出会った。
そして、教えを受けた。
ラッキーだぜ。
技を磨く人は道具にこだわる。
技で人を幸せにする人はそれでいい。
道具を発達させるのも必要だろう。
道具を磨くことも必要だろう。
立派なモノを作るには必要だろう。
だが、空海の書は違う。
技を見せたわけではない。
作品を作ったわけではない。
生き方を示したのだ。
だから、筆は選ばなかったのだ。
選んでも選ばなくても、どっちでもいい。
あれば選ぶ。
無ければ、あるモノでいい。
モノも無ければ、指でもいい。
メンドウならば、言葉でもいい。
融通無碍な生き方。
ワシは空海の書にそれを感じた。
その方法(歩き方)で道を進んだ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」