水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
国の宝でもあった生駒山。
頂上を削られ、結界を壊された。
この国は聖地を排除する力が働いている。
それでも生駒山は山全体が聖地だ。
まだ浄化の力は残っている。
山頂を削られたのと関係あるのかも知らないが、
小さな御瀧場には水が落ちていなかった。
この山は・・・中に何かあるかもしれない。
山の内部、地の内部に、何かがある。
ワシは歩きながら、そう感じていた。
1350年前の記録がある。
龍に乗り、空から生駒に何者かが降りた。
龍は空飛ぶ乗り物だろう。
降りたのは人間だったか、宇宙人だったか。
あるいは・・・役の小角(行者)だったか。
(年代的には小角が覚醒していた頃だ)
いずれにしても、その頃は更に更に特殊な「場」だ。
時代が下った1200年前。
空海が生駒山に籠った。
役の行者の生まれ変わり。
あるいは同一人物とさえいわれた。
真相は解らない。
両人とも屍骸を残さない。
原子の波動(氣)をコントロールできた二人だ。
原子の分解、再生は可能だったろう。
未だ地球にいるのか、他の星にいるのか。
あるいは、他の存在になっているのか判らない。
真の自由自在の両人だ。
時々は日本にも現われるだろう。
現代でも空海に出会った人はいる。
多分・・・役の行者に出会った人も。
ワシでは判らない。
判らないが、出会っていた。
判らなくても、出会っていた。
大慈悲の塊のような空海だ。
ボンクラなヤツ(ワシ)には優しい。
判るように奈良で呼び止めてくれた。
ワシはラッキーだけで生きている。
ワシが優秀だったら慈悲をかけてくれないだろう。
ボンクラだったからラッキーだった。
そして・・・「いいかげん」だから波形が合った。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
1995年5月。
空海の書を通じて、空海に出会った。
実は・・・この数日前にも会っていたのだ。
だからこそ、奈良で出会えたのかもしれない。
数日前・・・生駒山にワシはいた。
1200年前
生駒山は浄化修行の場だった。
御瀧場が幾つもあった。
御籠り窟が幾つもあった。
特殊な「場」がこの山には幾つもあった。
生駒宝山寺の奥の院の奥。
般若窟とよばれる岩壁がある。
今は一般立ち入り禁止区域だ。
1350年前に役の行者が開いた。
そして1200年前に空海が籠った。
人間界には様々な想念の塊が溶けている。
その中に「闇族」と「光族」がある。
浄化というのは、闇を解放する事だ。
生駒山全体が「浄化の場」の御神体だった。
闇族にとっては、邪魔な場所だった。
誰が決めたか知らない。
生駒山の山頂を削った。
このような霊山を破壊したい想念がある。
日本を闇の国にしたい連中だ。
名目は天文台付き遊園地。
霊山、霊峰は国の光だ。
国の宝だ。
宝とは光が溢れているモノだ。
国宝とは、浄化を司るモノなのだ。
光を見ることを「観光」という。
観光地は荒らしてはならない場所なのだ。
こんな「当たり前」が通らない日本。
未来を観通していただろうな、役の行者は。
そして・・・何を思う・・・。
空海は何を思う・・・。
そんな事を考えながら、幾つかの霊場を巡った。
僅かに残る何者かの「氣」。
これが空海ならいいな。
これが役の小角(行者)ならいいな。
ワシと通じるわけがないか・・・。
そうして生駒山を歩いていた。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
ワシは字が下手だ。
我が一族でワシだけが下手だ。
そんなワシが空海の字ウンヌンをいうのはなぁ・・・
ヘソで湯を沸かして、珈琲を淹れちゃうぞ。
電磁調理器より便利なヒネクレたヘソだぜ。
奈良国立博物館100周年特別公開。
空海(弘法)とくれば、最澄の書もあった。
空海の字は曲がっているが、最澄は整っていた。
ワシが上手、下手の判断をするのは無謀だ。
だが、字は最澄の方が上手かもしれない。
字の上手、下手はわからないが、
「氣」はある程度、判断できる。
空海の字は上手、下手から外れていた。
上手でもいい。下手でもいい。
そんなことァ、どっちでもいい。
オレの字はなぁ、意味じゃねぇんだ。
「氣」のグッズだぜ。
字が読めなくてもいいんだ。
ケモノでも虫でもいいんだ。
「氣」を文字に乗せただけだ。
石コロでもよかったんだけどよォ。
天ちゃんが(天皇)が頼むからよォ。
天ちゃんも結構苦労してるんだぜ。
この国を背負ってるんだぜ。
国家守護・鎮守の役目だ。
少しは手伝わねぇとな。
字には「守護・破邪」の「氣」を込めといたさ。
一応、オレ(空海)も僧だしよ。
万物の幸せに貢献しねぇとな。
まっ、理解してくれるヤツは少ねェけどな。
だから、ワシは空海の方が好きだ。
優しさが桁外れに大きい。
最近はワシも上手、下手から外れているといわれる。
空海が上手から外れたのに対し、
ワシは下手から外れている違いがある。
外れているなら、仲間だぜ・・・。
(注: 本妻はこの意見に賛成してくれない・・・)
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
何故か好きな相手がいる。
最初に断っておくが、ワシはホモではない。
好きになるのに同性も異性もない。
人間も妖怪も宇宙人もない。
好きは好きだ。
ワシは節操が無いだけだ。
ワシは「いいかげん」だ。
だから「いいかげん」な相手と相性がいい。
昔、同じ星に生まれていたのかもしれない。
とても幸せだった気がする。
グレちゃん(創造主)はグレートに優しい。
だから幸せなワシ等をアチコチの星に配った。
それなら、自分で創ればいいのに・・・。
グレちゃんはグレートに「いいかげん」だ。
もちろん全員が同じ格ではない。
どんな世界もレベルというか段階がある。
同じタイプだが、格が違う。
格は違うが、同じタイプ。
格なんざ、違ったっていいじゃん。
ワシは空海や役の行者などが好きだ。
理屈でなく、同じタイプの匂いを感じる。
(この無謀で驕慢で狂慢な言い方・・・はぁ~)
しかし、彼等はあまりにも有名だ。
「いいかげん種族」は有名と無縁なのに・・・。
この地球は・・・少し、狂っている。
同じタイプだからわかる。
彼等は「いいかげん」だけじゃない。
「氣」の扱い方のプロだった。
氣功師などというケチなレベルではない。
(ワシはず~とケチなレベルだな・・・)
存在の自由を探り当てたのだと思う。
存在が存在たる条件に「氣」がある。
無から有。
有から無。
どちらも「氣」を介して変化する。
無と有は単なる変化(へんげ)なのだ。
「氣」を扱うには「いいかげん」が最適だった。
「念」では「自由」に扱えない。
この点に気づいたから、未熟者でもワシはプロ側だ。
だが・・・ワシはまだまだまだ固定概念に縛られている。
解ければ、ステージが変る。
愉しみではある。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
空海(弘法)がいいかげんな証拠がある。
いくつもある。
「弘法も筆の誤り」というのがある。
名人でも間違えるという意味にとられている。
でも、それも間違いだ。
空海は元々いいかげんなのだ。
点が一つ抜けていても気にしない。
それが天皇から命令されて書いたモノでも。
だが、周りはウルサイ。
「弘法が字を間違えたぁぁ~」
点一つくらい、どうでもいいじゃん!
「よくない、よくない、よくない!!」
頭の固いマジメ人間が多い中、空海は苦笑した。
あ~、うるせぇ。今、直してやるよ。
そして、筆を投げつけた。
ストライク!
「お見事!さすが、弘法!」
(さっき、ワシをけなしてたじゃん!)
字なんざァ、まぁ読めれば充分だぁ。
颯爽と背を向ける空海はカッコイイ!
つまらん事にこだわるなよ。
空海は生き方でそれを示した。
書でそれを示していた。
偶然に訪れた奈良。
ワシは1200年前の空海と出会った。
そして、教えを受けた。
ラッキーだぜ。
技を磨く人は道具にこだわる。
技で人を幸せにする人はそれでいい。
道具を発達させるのも必要だろう。
道具を磨くことも必要だろう。
立派なモノを作るには必要だろう。
だが、空海の書は違う。
技を見せたわけではない。
作品を作ったわけではない。
生き方を示したのだ。
だから、筆は選ばなかったのだ。
選んでも選ばなくても、どっちでもいい。
あれば選ぶ。
無ければ、あるモノでいい。
モノも無ければ、指でもいい。
メンドウならば、言葉でもいい。
融通無碍な生き方。
ワシは空海の書にそれを感じた。
その方法(歩き方)で道を進んだ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
この言葉は勘違いしている。
ワシは弘法大師の書を見て、そう思った。
「弘法は筆を選ばず」
字の達人はどんな筆でも立派に書いてしまう。
技の優れた人はどんな道具でも立派な仕事をする。
そんな意味で受け止めているだろう。
ワシもそう思っていた。
「違う!」
ワシは空海(弘法)の書から感じた。
この人は・・・
いいかげんだ。
「すこぶる」付きの「いいかげん」だ。
とても立派な「いいかげん」だ。
文字に「氣」を乗せているが、
文字を見てもらいたいわけではない。
そんな事ァ、どうでもいい。
「筆を選ばず」というのは、
技が優れているからではない。
強いていうなら・・・性格だ。
その書は力強いが自由闊達だった。
筆を選ばず。
筆が無ければ、指で書いたろう。
何でもいいんだ。
別に綺麗に書こうとは思ってない。
技なんざァ、屁みたいなもんだァ。
ワシの小さい小さい理解は飛ばされた。
空海の書からは、おおらかな「氣」が溢れていた。
書なんざァ、書けりゃいいんだよ。
筆じゃなくてもいいんだ。
小枝で地面にだって書ける。
消えたっていいんだ。
いずれ、どんなモノも風化するさ。
この年から氣功療法院の看板を上げた。
だが、龍村道場にも通っている最中だ。
まだ修行中もいいところだ。
ワシは小手先の技を磨くところだった。
出だしで、空海の「氣」に教えられた。
ワシは、ナマケモノのスケベなオッサンなのに、
とてもラッキーに出会う。
小手先の技はどうでもいい。
以後の10年は、本質を磨く年月となった。
(と一応、勝手に思っている)
二人の御師匠様の教えがストレートに入る。
技を観なくてすむからだ。
出会った人は技を教える先生では無かった。
だから、先生ではなく、御師匠様となった。
技に頼っては進めない道だった。
ワシは不相応なほどラッキーだった。
感謝・合掌!
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
アネゴが言った。
「弘法は筆を選ばずって、嘘よね~」
「なんで?」
「道具を使うなら、絶対選ぶって!」
無意識でも道具は選ぶらしい。
アネゴは陶芸家だ。
道具で決るわけではないが、
道具でより意に沿って表現できる。
だから道具はとても大切だ。
言ってる事はワシでも判る。
でも「弘法は・・・」は、そうだと思う。
今から10年前になる。
ワシは奈良国立博物館の中にいた。
開館100周年記念の年だった。
狙って行ったのではない。
偶然だった。
普段は公開しない国宝が並んでいた。
阪神大震災で混乱中の関西だった。
ワシがいた5月にやっと中国高速道が復旧した。
ワシは3回目の生駒山からの帰りだった。
奈良・姫路に寄り道していた。
観光ではない。
奈良は偶然、時間があった。
看板に「超特別公開」の匂いを感じた。
ここで遇ったが100年目。
ホントに100年目の記念公開だった。
こういう偶然は絶対モノにする。
ラッキーが向こうから飛び込んできたのだ。
期間限定の国宝公開だぜ。
そうでなくてもワシは素直だ。
公開してくれるモノならナンでも見る。
(覗き趣味はないが、見せたいのなら遠慮はしない)
ナマケモノだが好奇心は人並み以上だ。
珍しい国宝だから・・・珍宝か?
自信無くしたらどうしよう・・・。
なんて心配は無用だった。
(最初から自信は無いぜ!)
それは、それは、圧倒される国宝だった。
古の像や道具や書の類だ。
どんな時代でも「氣」の塊は凄い。
全て「氣」の塊で創られていた。
その中に「書」があった。
弘法大師の書もあった。
「氣」の塊の書だった。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
体験は魂に刻まれる。
思い出は心で記憶する。
体験の感想は心だ。
心は嘘つきで当てにならない。
だから体験の感想は変る。
あの時は辛かったと思ってたのに・・・
今となっては懐かしい。
甲子園を目指して血と汗と涙の日々。
「オトコは顔よ」
振られた思い出・・・。
体験は消せない。
忘れても、消えない。
だが、感情や感想は変るのだ。
感情や感想は「忘れる」対象なのだ。
「忘れぬ」出来事があってもいいが、
「忘れぬ」感情は苦しみを生むだけだ。
喜び、悲しみ、嬉しさ、辛さ。
その時に出会う感情がある。
喜びに出会ったら、喜ぶ。
悲しみに出会ったら、悲しむ。
それで充分だろう。
今、悲しみに出会ったわけでもないのに、
悲しみを「思い出して」嘆く。
今、怒りの場面でもないのに、
怒りを「思い出し」腹を立てる。
生きている「今」を犠牲にして。
心は体験を味わう為にある。
心だけ取り出すのは歪みになる。
多くの人が勘違いする。
心が単独で大切だと勘違いする。
心はいつでもオマケなんだ。
体のオマケ。
出来事のオマケ。
心はセットで味わうモノだ。
だから、その都度「忘れる」のが活用。
心は「忘れる」と活きてくる。
意志は心からアプローチするが、
魂に刻むから、忘れても大丈夫だ。
(いったい、このテーマで何を書きたかったのか?
・・・・忘れてしまった・・・・)
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
ワシはある日を境に、イキナリこの道に入った。
本妻や子供達やそれまでの借金があった。
収入はほとんど無いが、学ぶのにお金はかかった。
銀行を騙して、土地・建物で借金をした。
(い、いや、ちょっと将来に期待を持たせたけど・・・)
約10年は使う金が上回っていた。
(今まで、ず~と・・・という意味ね・・・)
銀行以外からも、当然、借金した。
子供の通帳や保険は当然、使った。
(親とは、そういうものよ、フッ!)
もう昔の話だ。
過ぎた事なのに、金を貸した方はいつまでも憶えている。
ワシは普段忘れているのに・・・煩わしい。
銀行は肚の小さいヤツだ。
それでは幸せになれん。
過ぎた過去にすがっては、未来は来ないぞ。
このように「忘れる」事は未来がある。
「忘れぬ」事は過去にすがる。
どちらが「幸せ(嬉しい・愉しい・心地よい)」かは一目瞭然だ。
金貸しが「忘れぬ」と双方に支障が出る。
金貸し(銀行)は「おおらか」でなくては社会貢献できない。
不幸の元の記録は破いて捨てようぜ。
「忘れる」と「忘れぬ」。
心はデジタルの仕組みだ。
刹那(約75分の1秒)で次の世界に入る。
それを無理やり「忘れぬ」から苦しみがある。
「忘れる」のが自然。
「忘れぬ」のは不自然。
苦しみは自然から外れると鳴る警告なのだ。
忘れようが、忘れまいが、過去の事実は変わらない。
だが、未来の展開は変わる。
「忘れる」ほど明るい未来に変る。
それでもアナタは「忘れぬ」方の味方か?
ワシは「忘れる」側を応援するぞ。
人はいずれボケる。
努力してもボケる。
忘却は誰でも平等に与えられる。
ジタバタしても、忘れるものなのだ。
だが「嬉しさ・愉しさ・気持ちよさ」の体験。
「苦しさ・悲しさ・辛さ」の体験。
これらは積み重なるものだ。
体験の数や深さは魂に刻まれる。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
人間社会は固定概念がデカイ顔をする。
物事を憶えているのはシッカリ者。
忘れるのはナマケ者だと決めつける。
それは、半分は当たっているとワシも思う。
ワシはナマケ者だから、正直だ。
シッカリ者は、社会優先意識だから嘘つきだ。
建前(嘘つき)でないと、社会は成り立たない。
社会を正直で通したら喧嘩か混乱するのだ。
だから、シッカリ者は社会に適合している。
でもナマケモノが退化しているわけではない。
これが自然体なのだ。
人間の歴史でここ数千年が異常なのだ。
急ぎすぎている。
進化に急いで、進化するわけないのに・・・。
頭を発達させると・・・アホだな。
力を付ける事が無条件で「いい」と思うらしい。
迷惑なんだけどなぁ・・・地球にとっては・・・。
学力が増すのが「いい」と思うらしい。
無駄なんだけどなぁ・・・ボケるし・・・。
一所懸命生きる事。
一生懸命生きる事。
これらはワシも異論無い。
生命を観ていると、その通りだと思う。
だが・・・
一所懸命努力して前に進むのはなぁ・・・。
ちょっと勝手過ぎないかぁ?
多種多様な人がいるんだぜ。
他種多様な生物が生きてるんだぜ。
生きる事は勝手に前に進む事じゃない。
調和を学ぶ事だろ?
精進の真意は調和だろ?
勝手に努力しないでくれよなぁ・・・。
でも、まぁ、しょうがないかぁ。
また、今度もリセットになるのかなぁ。
何度も繰り返して、やり直していくらしい。
急いだ生物は心身精神も滅亡する。
当たり前なんだけどなぁ・・・。
滅亡しない為。
滅亡させない為。
グレちゃんは「忘れる」機能を取り付けた。
幸せを「自他のゆっくり」に溶け込ませた。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」