水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

日常と非日常・15

2006-02-14 22:36:37 | Weblog


「時」は連続していると思っていた。
ある時から「時」は断続していると解った。
この世(物質界)は一方向に「時」が流れる。
その一部に「生」がある。
肉体は「時」の影響で限りがあるのだ。

この世の基本は一方向に時が流れている。
だが、例外は必ずある。
というか・・・
例外が無ければ、円は完成しない。
例外が無ければ、世界は完成しないのだ。

ワシはアホだが、もっと大アホの頃もあった。
精神世界というのを追いかけていた頃だ。
この世の法則(律・理)を絶対(固く)と思っていた。
そのうちに、変な事に気づいた。
法則以外がある。
そのうち、もっと気づいた。
この世は、法則以外だらけだ。

気づけば、観える。
「理」というのは、やわらかい。
自然は、自然体で、変化する。
例外は、例外ではない。
かなり・・・いいかげんだ。

ワシは・・・自然に逆らわない。
「いいかげん」に生きよう。
ところが「いいかげん」だと困る事もある。
人間の律(法)は固いからだ。
衝突しそうな時もある。

そんな時は逃げる。
笑って誤魔化す。
自分から負ける。
アホを強調する。
例外だと思われたら、しめたものだ。

 
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日常と非日常・14

2006-02-13 21:17:18 | Weblog


「非日常」は生命の活性の為にある。
(非日常の)愛人は生命の活性なんだ。
愛しい人。
それは見えない世界が舞台なんだぜ。

愛人を「日常」に取り入れてしまう。
すると現実の生活の一部となる。
生活は生命を活性もするが、消耗もするのだ。
全体的には、穏やかに消耗する。
ウソだと思うなら、幾人もの愛人を「日常」にしてみなよ。
絶対に疲れる・・・。

恋愛と結婚の違いと同じだ。
恋愛は見えない世界が舞台。
結婚は現実の暮らしが舞台だぜ。
どちらも大切で必要だが、混同するモノじゃない。

お互いがイキイキする。
生命が活性する。
それが愛人だ。
だから愛人はタマ~に会うのがいい。
それぞれの生活の影のサポートだ。
お互い様なのだ。

共に道を歩くのは本妻(本夫)だ。
(一応理想としては、ですなぁ)
暮らしのパートナーだ。
だから労わり合うのが本妻だ。
愛人と混同してはドロドロになる。

愛人も本妻(本夫)も大切な相手だ。
「日常」と「非日常」も必要なモノだ。
それぞれが、それぞれの役割を持っている。
この世にある、全ては役割を持っている。
生命に係わる役割がある。

 
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日常と非日常・13

2006-02-12 19:35:32 | Weblog


ワシには本妻が一人いる。
本妻は「日常」だ。
愛人は数名いる。
数十人にする予定だ。
ワシの愛人達は「非日常」だ。
愛人達にとってのワシも「非日常」だ。
(きっと誤解するだろうなぁ・・・まぁいいや)

世の中には多くの愛人がいる。
だが、ほとんどの愛人は「日常」だ。
隠しているだけで、愛人は日常茶飯だぜ。
アナタの身内も近所も愛人だらけのはずだ。
これを読むアナタも愛人の確率は高い。
フッ・・・世の中なんて、そんなものさ。。。

最初の頃、誰でも愛人は「非日常」だったと思う。
本妻がいない人は、はずみで愛人から「妻」になる。
「こんないいオンナ(あるいはオトコ)と結婚すれば、
ずう~っと、いいかもしれない・・・」
結婚は、勘違いでするのがほとんどなんだなぁ・・・。

「非日常」が「日常」になる。
「非日常」の頃、生命が活性した相手。
同じ相手なのに結婚すると生命が疲れる。
「日常」に変ったから、当たり前なんだ。
いい、悪い、じゃない。
「非日常」と「日常」は違うのだ。

「非日常」の愛人だったはず。
いつの間にか「日常」の愛人にする。
すると「日常」には本妻もいる。
別の「日常」の愛人もいる、かもしれない。

「日常」は「衝突」が起こる次元だ。
本妻と愛人が同じ次元にいる。
愛人と別の彼女が同じ次元にいる。
ドロドロ、グチャグチャになる。
「非日常」の使い方を知らないからだ。
(注:ワシの愛人達は非日常のままだぜ)

 
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日常と非日常・12

2006-02-11 22:26:00 | Weblog


そうか、そうだったのか、ウンウン。
ワシは非常識だが、そんなの当たり前だ。
決して特別ではない・・・ないと思う・・・。
ワシの故親父だって、非常識な人だった。

最近のニュースなどで頭を下げている偉い人達。
皆、非常識だよねぇ・・・。
日本の代表の総理大臣や米国の大統領。
立派な非常識人間だ。
なんたって「戦争」を肯定して薦めるんだぜ。
最近は、非常識は「日常茶飯」だ。

だが、ワシがどういうわけか扱う「氣」。
コイツは「非日常」だ。
ワシが扱うが、ワシのじゃないからだ。
「ワシの氣」なら非常識でも「日常」だ。
ワシや人間以外の「非日常世界の氣」らしい・・・。
らしい、というのは・・・よく解らんのだ・・・。

「この氣」は生命力が活性する。
これは事実だ。
その為にいろいろな現象が起こる。
病からの回復もその一つだ。
だから・・・「非日常の氣」だと思う。

そうだったのかぁ・・・。
実は・・・どうして心身の病が回復するのか疑問だった。
い、いや、疑問ってほどじゃないけど・・・。
深く考える相手(「氣」)じゃない事は解っていた。

回復しない「氣」も多いんだぜ。
「人間の氣」なら「日常」だ。
様々だもの・・・
色気とか食い気とか病気とかもあるし。

回復に適した「氣」。
それは「非日常」だったからかぁ。
そういう見方もいいよねぇ。

 
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日常と非日常・11

2006-02-10 20:50:02 | Weblog


食事。
「日常」の食事。
嘗ては食事は家庭が日常だった。
ごはん、味噌汁、日々のおかず。
「非日常」の食事は「ハレ」の場合だった。
やがて「非日常」は外食や出前になった。
(ハレとは、特別という意味だ)

「非日常」は生命を活性する。
しかし、それは「日常」に比べマレだからだ。
そして「非日常」は「日常」時に活きる。
今の日本の食。
「ハレの食」は無くなってしまった・・・。
「日常」と「非日常」は区別できない。

「ハレの日」が待ち遠しい。
「ハレの日」が嬉しい。
生命が躍動する日。
今の日本は生命の活性の仕組みを捨てた。
「ハレの日」が「日常」になればいいと思ったのか。
アホ・・・。

昔は、食から生命の活性が出来た。
今は、食で生命を活性するのは難しい。
「非日常」の使い方が理解できなくなったのだ。
食の質の問題ではないのだ。
(無農薬とか微量元素とかの次元の話じゃないぜ)
時代が進むと、人間はアホ度も進む・・・。

 
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日常と非日常・10

2006-02-09 22:41:56 | Weblog


趣味の世界。
これも「非日常」だ。
そこには時が無い。
生命を刺激するモノがある。
だからこそ「日常」との組み合わせが重要なのだ。

趣味だけにのめり込む。
すると生命は狂う。
「日常に戻る」からこそ、趣味は活きる。
引退したら、趣味三昧。
それは間違いだと思うよ。
「日常」を離れると、
生命はボケる・・・。

好きな趣味で暮らしたい。
趣味を日常(生活)に同化させる。
それなら大丈夫。
それは趣味ではなくなるからだ。
それは「生き甲斐」という。

「非日常」は個人の世界だ。
「日常」は係わり合いの世界だ。
趣味は個人の世界だが、
社会(日常)に同化させたなら個人の趣味ではない。
その道のプロとして、社会の一片となる。
社会に参加して、生命は活きる。

多種多様な生き方が参加する。
それが地球という生き物だ。
生命の形は単独ではないのだ。
単独では壊れる(狂う、衰退する)。
組み合わさって、生命は繁栄できる。
 
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日常と非日常・9

2006-02-08 19:47:43 | Weblog


酒を飲む。
これは「非日常」なのだ。
(それが仕事の人達は別だ)
飲めば、時間が不明になる。
日常(常識)が通じなくなる。
欲(煩悩)が湧き出す。

「日常」の為に「非日常」がある。
「非日常」だけを追いかければ壊れる。
酒を飲む、という事だけでも理解できるだろ。
酒は、生命の活性が役割だ。
「日常」に戻るから役に立つのだ。

(ほとんど飲まないワシは・・・
最初から「日常」と「非日常」の外にいる。
「日常・非日常」の外が仕事場なのだ。
ワシは常識も非常識もいいかげんに使っている。
だが、この話は説明がメンドウ・・・)

仕事(日常)しないで酒を飲む。
すると、生命は壊れていく。
仕事がキツイからこそ、酒が活きる。
(まぁ、そうとも限らないんだけど・・・)

「非日常」の使い方を理解する。
すると酒の飲み方が自然と解る。
自然体の飲み方が綺麗で愉しいのだ。
「非日常」は生命を活かす。

 
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日常と非日常・8

2006-02-07 21:59:57 | Weblog


特殊な場。
特殊な方法。
特殊な出会い。
特殊な世界。

特殊だから強烈に感じる。
特殊だから刺激も強い。
強烈や強力は「少し」でいいのだ。
追いかければ、壊れるのは当たり前だ。

「修行」と称し、追いかける。
趣味ならいい。
「日常」が基本だと踏まえているならいい。
修行はアホのする事だと知っているならいい。
だが、特別素晴らしいと勘違いすれば、
先にあるのは、自他の迷惑だ。

本来は「日常の中」で気づく事だ。
だがアホだから、特殊を使う。
「特殊な修行」はアホだから行う。
アホだから、行じても実は少ない・・・。
こんな事、当たり前なんだけどなぁ・・・。

オマケに「生命」を活性する事を忘れている。
本末転倒ってやつだ。
「生命を削って修行した」・・・。
大アホ丸出し・・・。

2500年前にブッちゃん(仏陀)は言った。
「苦行するのはアホだぁ~」
その意味も解らず、今も続けるのがいる。
精神世界は苦しむ場じゃないぜ。
愉しみ、嬉しさ、喜び、気持ちよさの活性の場だ。
宗教信者は、そんな基本的な事さえ忘れている。

マゾは精神世界に係わらなくてもいいのになぁ。
現実社会でも充分、苦しめるぜ。
「非日常」の使い方。
それは「(日常の)生命の活性」で判断しようぜ。

 
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日常と非日常・7

2006-02-06 21:47:03 | Weblog


「非日常」の凄さに飲まれる。
すると他に紹介したくなる。
時には自慢したくなる。
精神世界(非日常)は罠に満ちている。
浅はかな知ったかぶりは、穴に落ちる。

ワシは穴があったら覗く趣味だ。
だが落ちる趣味はない。
落ちる趣味はマゾだ。
マジメにとらえると罠に落ちる世界だ。
精神世界とは「いいかげん」に付き合うのがコツだ。

落ちたい人はそれでもいい。
趣味ならいい。
だが「素晴らしい」と誘うのはなぁ・・・。
「非日常」は他を誘う場所じゃないぜ。

地(智)に足を着ける。
それは「日常」を基本にしろという意味だ。
「日常」を健康(幸せ)に生きる。
それには「非日常」が一役買うということだ。
精神世界なんて、脇役だぜ。

そもそも精神世界なんて言葉が勘違いを誘う。
人間はアホだもの、誘われればついていく。
(ん?ワシだけ?・・・
ワシはもちろん、誘いには乗るさぁ)
ロクデナシが大部分の精神だぜ。
精神世界なんて、煩悩がほとんどなんだぜ。
ちっとも偉くないんだ。

だから「煩悩」は「日常」で活かす。
「煩悩」は使い方で生命を活性する。
「煩悩」だけを追いかければ壊れる。
精神世界を追いかける事自体が煩悩なんだ。

 
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日常と非日常・6

2006-02-05 21:49:54 | Weblog


「非日常」は生命力を活性する。
活性するが生命は「日常」が舞台だ。
だから「日常」を基本としないと壊れる。
「非日常」世界にいたままでは「生命」は壊れる。

「生命」は活性したままだと「狂う」のだ。
使う場(日常)があるから螺旋状に流れる。
「流れない生命」は壊れる(狂う)。
最初から、そのように仕組まれている。

精神世界(非日常)が本当の舞台だと信じている人達は、
「一見、イキイキ」するとホンモノと勘違いする。
立っている「場」が違っている事に気づかない。
生涯が「イキイキ」ではないのだ。
浅い知恵は持たない方が幸せになれるんだぜ。

「生命」は肉体側に付いているんだ。
「生命即神」だ。
この世(肉体界)の存在理由がここにある。
「非日常」は肉体界から離れる事が多い。
だから勘違いしやすいのだ。
「肉体即神」という事に気づかない。

「非日常」は追いかけるモノではない。
愉しむモノだ。
味わうモノだ。
学ぶモノじゃないぞ。
気づくモノだ。

「気づき」はそれだけでは意味がない。
「日常」に戻って応用して活かされる。
「気づき」が多くても意味がないんだ。
「日常」で活かして、幸せになれる。
そして、それは他の人に押し付けるモノでもない。

 
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