水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
第十三章(8)
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖
「無有恐怖」も表面の訳が多い。
「~故に恐れが無い」などと訳すようだ。
それなら「無恐怖」で事足りる。
「有」の字が入っている意味を無視している。
何度もいう。
「無」を「無い」と訳すから意味が汲み取れないのだ。
「無」は「こだわらない・気にしない」と訳すのだ。
「こだわらない」と訳せれば「有」の字が活きる。
恐怖が無くなる、のではない。
恐怖が有っても大丈夫だぜ、と言ってくれている。
ブッちゃん(仏陀)は優しいんだ。
理屈で「無くなる」なんて強調しない。
生きている、というのは「恐れ」と共生しているのだ。
先が見えない(恐怖)から、この世で生物として存在しているのだ。
恐れの無い生物は存在できない。
無くなったら、この世にいる意味が無い。
肉体を持っている意味は、結構深いんだぜ。
そんな事は当たり前だろ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第十三章(7)
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖
いままでの心経の訳には身体が抜けている。
心の部分だけ取り上げていた。
心経は心(精神)分野の経だと思われている。
それは、とても大きな間違いだと思う。
肉体(物質)が無い世界なら魂が主役だ。
だが、この世界(色界)は物質(肉体)が優先する。
心や魂が重要なのは解るが、優先するのは肉体だ。
心や魂が肉体に影響するが、増して肉体が心や魂に影響する。
底の浅い宗教や、宗教まがいの組織の教えは似ている。
精神的正しさを強調した教え。
肉体の無い世界でしか通用しない理屈。
それで肉体を持った衆生やケモノや妖怪は救われない。
心は誤魔化せるが、肉体は誤魔化せないのだぜ。
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第十三章(6)
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖
心無罫礙 無罫礙故が同じ意味なら・・・
「心無罫礙故」の一節でいい。
どこが違うか?
一目瞭然。
前節に「心」があり、後節にはない。
つまり「無罫礙故」の網や石は心の事じゃない。
心でなければ、身体だ。
身体の網は病の事だ。
石は怪我の事だ。
(この訳は多分、日本でもワシ一人だと思う)
ゲンちゃんは、わざわざ心と身体を区別して書いたのだ。
この世界では、心も肉体も同等に重要なのだ。
つい、心や精神を重要視しがちだが、それは間違いやすい点だ。
同等だが、むしろ肉体が優先する世界だぜ。
精神世界スキスキ人間は、ここで必ず間違える・・・。
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第十三章(5)
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖
「無罫礙故」に、また仕掛けがある。
今までの「色不異空」と「空不異色」。
「色即是空」と「空即是色」などと同じだ。
そのまま字面を訳したら、マヌケだろ。
ゲンちゃん(玄奘)はボケてない。
せっかく心経という凝縮経にしているのだ。
同じ意味言葉の繰り返しなどしない。
だから、ここも違う訳にして欲しいのだ。
通常の訳者が間違うのは、訳者の立場だからだ。
書き手の立場になれば判る。
まして、イタズラ坊主のゲンちゃんだ。
書き手は、文章に仕掛けをしたいものなのだ。
短い文章になればなるほど仕掛ける。
詩や俳句や短歌をみればいい。
言葉に様々な仕掛けを付ける。
訳し手や読み手の事など、少し度外視してしまう。
書くのが愉しいから、そういう仕掛けをする。
創る愉しみは個人的な愉しみが必ず入る。
何事も個性があってこそ活きる。
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第十三章(4)
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖
網に引っかかっても、気にするなよ。
石につまづき転がるなんて、普通だぜ。
網を無くそうなんて考えなくていい。
石を避けようなんて思わなくていい。
先の事は判らねぇ。
誰も先は見えねぇもんだ。
生きるってのは、闇の中で歩いている。
人により、真っ暗か薄闇かの違いはある。
先に光を感じるかどうかの違いもある。
それは大きな違いかもしれねぇ。
それでも網に絡まる。
薄闇でも光を感じても、石に転がる。
絡まる、転がるのは大前提さ。
そんな事ぐらいで、立ち止まる必要は無ぇぜ。
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第十三章(3)
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖
網に引っかかるな、と言っても絡まる。
石につまずくな、と言っても転がる。
それが人間で生きているって事だ。
その大前提を認めた上で説法が活きる。
心の中は多種多様なモノが沢山ある。
不都合なモノだけ無くせ、というのは無理だ。
多種多様で心を形成しているのだ。
清く正しいだけの心は存在しないし存在できない。
そんな事もわからないで心の領域に踏み込もうとする。
宗教家や教育者や生真面目な人達。
言っている本人も自分の心にフタをしている。
嘘をついている。
あるいは、観る目も無いのに理屈で話す。
だから落ちこぼれは救われない。
閉じこもりも出られない。
心に正しさを押し付けても回復しないのだ。
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第十三章(2)
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖
単純に「心に引っかかり(罫礙)が無ければ・・・」
などと訳しても意味が無い。
「清く正しく美しく生きましょう」
などと平気で言う宗教言葉のようなものだ。
だからワシは宗教は詐欺だと思っている。
平気でそういう言葉を言う人を信用しない。
心が簡単に動かせるなら、世界は何千年も前から楽園だ。
人間は皆、神様級の超高等精神体だ。
もちろん、宗教組織など必要あるまい。
皆が悟っているのだ。
ブッちゃん(仏陀)は本物の優しいオッサンだ。
無理な事は言わない。
出来もしない事を言わない。
誰でも出来うるヒントを話しているのだ。
最終的には本人が自分で歩く道だ。
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第十三章(1)
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖
前章の続きだ。
その前に、罫礙(けいげ)の説明だ。
(注:罫のトが無い字だが、変換できない)
罫は網で礙は石。
網にからまったような心。
石につまずくような心。
何故、網や石に束縛されるか。
「こだわり」が網や石を引き寄せる。
「無(こだわらない)」なら、網や石も邪魔じゃない。
世の中には網も石もあるのだ。
網や石が無くなるわけじゃないぜ。
だが邪魔にならなければ、不都合じゃない。
落とし穴も沢山ある。
しかも先が真っ暗の時もある。
それでも歩かなければならない。
毎日生きているからだ。
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第十三章(12)
菩提薩多 依般若波羅蜜多故
「誰でも菩薩なんだけどよ、
菩薩として生きるコツがあるんだ。
そのコツを知って実行すると、楽に生きられる。
苦しむと、生きるのが大変に思えるだろ。
苦しむ菩薩より、愉しめる菩薩になりなよ。
そのコツが般若ってヤツだ。
何も難しい事じゃ無ぇ。
何度も言っているだろ。
この世の仕組みはイイカゲンだ。
だから、イイカゲンに心を合わせるのさ。
万物が流転しているし、諸行は無常だろ。
心を固定したら苦しくなるのは当たり前だ。
毎日身体だって変化しているんだ。
心だけこだわるのは不自然だろ。
それに気づく事が、般若ってことさ。」
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第十三章(11)
菩提薩多 依般若波羅蜜多故
ワシ的訳。
これは次章に繋がる部分だから途中までの訳になる。
「お前ぇ等は皆菩薩なんだぜ。
生き物ってのはよ、その立場立場で生き方が違う。
それでも方向は同じなんだぜ。
気づいても気づかなくても同じ方向に歩いている。
この世界に生まれて、死ぬまで生きる。
一人一人の個性で生きる。
個性は共生を活かす為のもんだ。
この世ってのはよ、多種多様なモノが合わさって出来ている。
どんな立場でも、他の役に立っているんだ。
だから、気づいても気づかなくても菩薩だ。
もちろん一度の人生で完成するわけが無ぇ。
何度も生まれ変わるのさ。
いろいろな立場を経験するのさ。
そして、少しづつ進むんだ。
幸せ、そのものの境地に向かっているんだ。
生きているってのは、幸せに向かう事なんだぜ。」
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