とだ*やすこの「いまここ@島本」

暮らしの豊かさ最優先!
ひとが主役のまちづくり!

大阪府島本町議会議員
とだ*やすこの活動報告

ウイスキー100年フェスティバル

2024年04月15日 | もっと文化を!そして歴史を!
2023年秋、サントリー山崎蒸溜所100年を記念するイベントがJR島本駅前・史跡桜井の駅跡で開かれました。都市創造部・にぎわい創造課が関わりました。

まちの空気感を味わいながら、日常の延長線で、ウイスキーを片手にゆるやかに語らう時間。まちが時間とともに、人とともに醸成していく、そんな新しい風が、今、島本町に吹いています。



「ウイスキー100年フェスティバル」は、シティプロモーション、地域ブランディング、地域住民の愛着や帰属意識の形成にふさわしい催しになっていたととだ*やすこは感じています。

まず、主催、企画・運営、共催、それぞれの役割について整理しておきましょう。主催は町のシェアリングエコノミーに取り組んでおられる住民団体SMALLです。イベントの方針や内容の決定、フードブースの出店調整を担いました。

企画・運営はSMALLから委託を受けた「日本コーヒーフェスティバル実行委員会」。これまでに国内外でコーヒーを使った地域活性化イベントを開催してきた経験を生かして、今回はウイスキーをテーマにしての企画立案、当日の運営などを担いました。

共催として大阪府町村長会と島本町が関わり、大阪府町村長会はイベント開催費の補助(周年記念事業対象)を、島本町は地域資源を生かすための企画立案やサントリー山崎蒸溜所との調整を担いました。

サントリー山崎蒸溜所は、今や世界が注目するジャパニーズウイスキーの聖地、すなわちアジア初のウイスキー誕生の地です。企業のブランドイメージを損なうようなことは避けなければなりません。

ジャパニーズウイスキー=アジアウイスキー発祥の地。これを島本町としてどのように発信していけばよいのか、わたしなりにあれこれ考え続けた10数年でしたが、すべて見事に、良い意味で裏切られました。

以下、2月定例会で行った一般質問「ウイスキー100年フェスティバル ~効果と課題と展望~」から、一部を抜粋して、その内容をお届けします。

なぜ、「100周年」ではなく「100年フェスティバル」に?
山崎蒸溜所の建設に着工した100周年記念イベントではなく、この地で100年もの歳月をかけて、世界に誇るウイスキーを作りあげてきたことに感謝し、次の100年に向けて、ウイスキーの文化を次の世代にも伝え、良質な地下水を生み出す豊かな自然をこれからも守っていくという思いを込めて、「ウイスキー100年フェスティバル」というイベント名にしたとのこと。素晴らしい☆彡

なぜ、蒸溜所が見える水無瀬川緑地公園で開催しない?
水無瀬川緑地公園はスポーツグランドで土埃が舞いやすく、落ち着いた雰囲気でウイスキーを愉しむには広すぎるという判断があったようです。桜井駅跡(史跡公園)はJR島本駅、阪急水無瀬駅から抜群のアクセス、なおかつ適度に木々に覆われ、その規模感も心地よく、3日間通い続けて、なるほど大正解であったととだ*やすこは思いました。

なぜ、シングルモルトではなくオリジナルドリンクに?
シングルモルトを飲み比べるなら「山崎ウイスキーミュージアム」(サントリー山崎蒸溜所)に勝るものなし、ということになってしまうでしょう。新しいウイスキーの愉しみ方を提供してウイスキー文化の裾野を広げ、参加することでしか味わうことができない「人」(バーテンダー)を介した体験(コミュニケーション)を考えたと都市創造部・にぎわい創造課は述べています。

初回としては大成功といえます☆彡 
行政的な視点からすると①シビックプライドの向上②近隣自治体からのマイクロツーリズムの誘発③広域にわたる地域ブランドの確立などが効果として期待できる、ということになるでしょう。日本初のモルトウイスキー蒸溜所がこの地から生まれたこと、島本町の魅力(たとえば水無瀬神宮などの地域資源)を広く知らせる効果も期待できそうです。

とはいっても課題は山積しています
たとえばサントリー山崎蒸溜所の工場長と名誉チーフブレンダーが並んで話される講演会、爽やかな生演奏BGM、島本町の魅力を紹介する冊子など、参加してみないとその価値がわからないため、高すぎやしないか?という印象を与えてしまいました(当日3500円・前売り3000円)。

広報の充実、チケットの販売手法、ウイスキーにあう食事の提供(マリアージュ)、ごみの削減など多くの課題が残されました。今回の一般質問ではこれらの課題をにぎわい創造課と共有しました。

初の仕込み、初の出荷、、、これからも100周年記念は続きます。ウイスキー文化の薫るまちへ、さらに磨きをかけていただきたいと思います。2024年秋もウイスキー100年フェスティバルでお会いましょう。



画像
山崎蒸溜所の奥
椎尾神社に咲き乱れる山吹

サントリー・ローヤルのボトルキャップ
緩やかなカーブデザインはここの鳥居がモチーフ






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まちづくりの核となる公園         ~遺跡復元展示~(2)

2022年02月15日 | もっと文化を!そして歴史を!
西浦門前遺跡には現地で保存できないやむを得ない特別な事情があり、本来避けるべき移築(島本町歴史文化資料館敷地内)となってしまいましたが、その復元過程において島本町は市民参画で地域住民の学びの場を創造しました。

ご指導いただいた仲隆裕先生に今も深く感謝しています。また、同時期、本町の歴史文化資料館において開かれた庭園学会では、埋蔵文化財の保存・活用につき、研究者と複数他市の行政職員による熱い議論が交わされていました。

移築や一部復元の問題・課題、先進事例の紹介などを興味深く拝聴し、識者のご助言を得る必要があると気づきました。広瀬国木原遺跡(第一小学校西)、桜井の西浦門前遺跡(役場庁舎西)の発掘等を機に京都文化圏から熱い期待と注目が寄せられています。


***** 令和3年12月定例会議の一般質問から ***** つづき

JR島本駅西土地区画整理事業の課題 ~遺跡を活かした1号公園~についての質疑&答弁をご紹介します。※要約文責:とだ



文化財保護審議会に埋蔵文化財の復元・展示手法について実践的にご助言いただける識者はおられるか。


現在、文化財保護審議会に埋蔵文化財の実際の復元等を専門としている方はおられない。


西浦門前遺跡の庭園遺構を本町歴史文化資料館の敷地内に一部復元できた経緯と当時の取組内容について説明を。


西浦門前遺跡の庭園遺構については、発見後、保存及び復元について開発事業者と協議を行い、現地での埋没保存や付近での復元が困難であったため、歴史文化資料館の敷地内に移築復元することとした。

移築復元にあたっては、平成27年8月から京都造形芸術大学(現京都芸術大学)の仲隆裕教授の指導のもと、西浦門前遺跡の庭園移築プロジェクトと銘打ち、住民参加で移築復元作業を進め、同年11月に西浦門前遺跡の庭園移築完成披露を行った。


研究者や研究者を志す次世代に、実践的な研究、調査の機会、フィールドワークの場を提供するのも教育行政の重要な使命と私は考える。この点につき町長と教育長のお考えを。


答 中村教育長
文化財研究において、次世代研究者の育成のためには、実践的な調査研究の機会としてフィールドワークの場を提供することは大変有益であることは理解している。

教育委員会としては次世代研究者の育成の視点を大切にしつつ、限られた財源、地権者の理解なども十分踏まえた上で、今後の池泉跡の復元方法について協議してまいりたい。

答 山田町長
次世代研究者の育成のためには、実践的な調査研究の機会としてフィールドワークの場を提供することも大変有益であると認識する。今後、そうした機会があれば積極的に提供してまいりたい。



とだ*やすこは、昨年、遺跡復元の現場を幾つか訪ねました(高槻市の史跡新池ハニワ工場公園、京都市内の平安京大極殿跡公園、京都市二条公園等々)。説明・展示の在り方も含めて公園全体の設計の段階から識者のご助言を得ることの重要性に気づきました。

歴史文化の視座からも有識者のご助言を得て、島本町教育委員会として内外からしかるべき評価が得られる復元展示を実現しなければなりません。今回の一般質問でもこの点を強く求めましたが、これには地権者のご理解、ご協力が必須です。


画像
尾山遺跡の鎌倉時代池泉跡(JR島本駅西)
本町における鎌倉時代の貴族社会を物語る貴重な遺跡
※令和2年10月3日現地説明会にて撮影

濁水を池に流さないための砂落とし
壁面に据えられた曲げ物
底に石が敷き詰められた土坑など
高度な技術と貴族的な趣向がみられるとのこと
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まちづくりの核となる公園         ~遺跡復元展示~(1)

2022年02月12日 | もっと文化を!そして歴史を!
本来、公園は地域のまちづくりの核となるものです。欧米諸国、さらには中華圏、イスラム圏と比較しても(些細な経験からの印象にすぎませんが)、日本の公園には「憩い」「緑」「水系」などの「余白」がないと思えてなりません。

本当に必要なのは、行政が管理する遊具や健康機器なのでしょうか。必要なのは、ゆるやかなコミュニティ形成と(いささか大袈裟さながら)個の確立を可能にする「時間と空間」の「余白」では?と思えてなりません。


土木・建築・造園技術を駆使してデザイン・設計を重視し、人間工学に基づいた空間形成をめざしていかなければならないと考えます。景観形成の重要要素であるとともに災害時の避難場所としての機能と効率性も必須です。

さて、とだ*やすこは、JR島本駅西地区(土地区画整理事業という手法での面的整備)に新たにできる公園に、当地で発掘された埋蔵文化財:鎌倉時代池泉跡の復元展示の必要性を訴え続けています。

***** 令和3年12月定例会議の一般質問から *****

JR島本駅西土地区画整理事業の課題 ~遺跡を活かした1号公園~についての質疑&答弁をご紹介します。※要約文責:とだ



公園の設計業務を担われる事業者はどこか。アプローチ、植生、遊具や東屋の有無、その位置など、多くの要素が含まれているが、町は現在、どのような関係機関とどのような協議を進めているか。


現在、JR島本駅西土地区画整理組合の業務代行者である株式会社フジタが、阪神園芸株式会社へ業務委託を行うことにより進めていただいている。おおむね今年度末までに完成させる旨、聞き及んでいる。

当該公園に関する協議については「JR島本駅西地区まちづくりガイドライン(令和3年8月策定)」の指針を活用し、アプローチや植栽、遊具、東屋の有無などを含め、当該事業組合と具体的な協議を進めている。

◇JR島本駅西地区の公園
1号公園:マンション計画予定地の南側に1号公園
2号公園:町立第三小学校の南側



植栽等について環境保全審議会の会長にも町に対してアドバイスをいただいているとのこと。具体的にどのようなご助言をいただいているか。


公園全体の景観、通路付近への植樹による見通し(防犯上の問題)、シンボルツリーなど。山桜などを植樹しメンテナンスフリーで大木に育てるなど、将来的な維持管理面を踏まえた具体的なアドバイスをいただいている。


基本方針のようなものが明文化され、町と株式会社フジタとの間で共有できているという、そのような理解でよいか。


当該公園に関する基本方針については「JR島本駅西地区まちづくりガイドライン」に基づくこととする。

1号公園:本町の歴史文化遺産の保全・活用に資する公園。景観等に配慮し、防災機能やコミュニティ形成に資する公園
2号公園:住民、特に子どもたちが親しみやすい公園。防災機能を備え、植栽は緑量の多さに配慮する


1号公園は遺跡を活かした公園であるか


具体的にどのような形で遺構を保全活用していくかについては協議中。基本方針(ガイドライン)に基づき、教育委員会と連携を図りながら引き続き歴史文化遺産の保全・活用に向けた協議を行ってまいりたい。   ※つづく


画像
尾山遺跡の鎌倉時代池泉跡(JR島本駅西)
記録保存の後、調整池設置工事で解体撤去
※令和2年10月3日現地説明会にて撮影

くぼみのところにケヤキの根(右側)
底には青色系の石が敷き詰められ
水量の多いときは溝から水が抜ける構造
と考えられている ※現時点の町教委見解


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この夏、中高生の俳句を募集!

2021年08月01日 | もっと文化を!そして歴史を!
猛暑、お見舞い申し上げます。7月議会を終えてひと息=公私ともに学びが盛りだくさんとなり、ブログの更新ができないまま8月を迎えました。

この度、教育委員会事務局・教育こども部生涯学習課長が傷害の容疑により逮捕されるという事案が発生しました。報道等でご存知の方もいらっしゃると思います。

ご心配をおかけしております。わたし自身、詳細について今はまだ把握できる状況になく、事実関係の確認がなされたうえでの報告を待ちたいと思います。

今、わたしにできることは、これまでにもまして町の文化施策の充実に努めること。この夏、新たにはじまった中高生の俳句大会をお知らせします。


中高生の俳句大会 才能あり!をめざそう

俳諧の祖といわれる山崎宗鑑*ゆかりの地
島本町の俳句大会です 詳細はこちら

*山崎宗鑑
1465〜1553 室町後期の連歌師
『犬筑波集』の撰者といわれる
俳諧連歌をおこし近世俳諧への道を開いた
山崎に庵「對月庵」を結び山崎宗鑑と呼ばれ
島本町山崎に「宗鑑井戸」が残されている

島本町文化協会・俳句部「紫水会」を指導していただいている生澤瑛子氏に選句していただきます

** 初夏・夏・晩夏 **

糸とんぼ
遠い日の水辺の記憶糸とんぼ
子らの声風に流るる糸トンボ
夕暮れの風に透けたる糸蜻蛉

いきもの
かたつむり我が道をゆく右ひだり
あめんぼう田一枚の世界かな
ひとりっ子をのぞいてゐる背中


右摂津左山城蝉しぐれ
歓声はこの蝉しぐれオリンピア
殻を脱ぎ別の命のとなる


避暑
京極の老舗喫茶のアイスティ
生ビール泡の高さを傾けり
夏木立離宮の水で茶をひとつ


結界を破り八坂へ稚児の
ギシと揺れ北へと廻る祭鉾
エンヤラヤー祭扇の息ぴたり

京都
京の風祇園囃子を北に抜く
晴天を突きあげ長刀鉾立ちぬ
鱧寿司や昔語りのみな昭和    靖子


昭和5年生まれの句友に誘われて紫水会で俳句を学んでいます
初対面からファーストネームで呼び合う俳句の世界がとても好き
興味のある方、ご一緒しましょう



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二条公園
JR島本駅西地区内につくられる公園のひとつ(3520㎡)を
遺跡(鎌倉時代)を活かした公園にできるよう頑張ります
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『島本町歴史文化基本構想』を!~文化財保護行政4~

2021年01月24日 | もっと文化を!そして歴史を!
12月の一般質問「もっと文化を!埋蔵文化財保護行政と歴史文化基本構想」(要約:文責とだ)*つづき

桜井の尾山遺跡・越谷遺跡の存在は、JR島本駅西地区のまちづくりに付加価値をもたらし、この地に水無瀬神宮があることの意味、後鳥羽上皇の時代(公家から武士の時代への転換期)に新たなスポットを当てるものです。

ベットタウンとして発展した島本町には、かつて鎌倉時代の公家社会の様子が埋もれています。承久の変の後(島本町では「乱」とは呼ばず、こう呼ぶ)、後鳥羽上皇が隠岐に配流された後(島本町では「お移りになった」と表現されることも)、水無瀬の地はどのような道をたどったのでしょうか。

こういったことを地元で研究していくことの必要性を強く感じます。そのためには、島本町の「歴史文化基本構想」が要ると考え、以下の質問を行いました。

島本町歴史文化基本構想について
問:戸田
近年、生涯学習課におかれましては精力的に文化財調査を行い、データベースの蓄積を行っておられると認識していますが、本町には、文化財保護行政を進めるための基本的な構想、マスタープランがない。必要と考えるが、いかがか。
※文化庁:歴史文化基本構想の策定技術指針公開・相談窓口を設けて推奨

答:教育こども部長
歴史文化基本構想は、各地方公共団体において文化財保護に関するマスタープランとして、文化財をその周辺環境も含めて総合的に保存・活用するために策定するものであり、平成19年に国の文化審議会文化財分科会企画調査報告書において提言されたもの。

本町においては「総合計画」の中で文化財の保護や活用について示している。歴史文化基本構想は法定義務ではないことから、現在のところ歴史文化基本構想を策定する予定はない。

今後も「総合計画」及び「文化財保護法」、また、本町の「文化財保護条例」に基づき、適切な保存・活用に努めてまいりたい。


環境分野においては住民参画で丁寧に「環境基本計画」を策定しました(その入り口から市民として参画してこれを実感している)。今現在の環境保全審議会での議論を闊達にしている根っこになっていると思います。

歴史文化分野でも本来そういうプロセスが必要なのです。文化はお金にならないと思ったら大間違いです。文化庁の京都移転に期待したい。とだ*やすこは、わが町・島本の文化行政が充実するよう、祈るように活動を続けます。


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下賀茂神社の蹴鞠展 開催中
鴨社資料館秀穂舎(一の鳥居北)
1月1日~3月21日(日)
10時~15時 水曜日休館
大人500円 中学生以下無料
*後鳥羽上皇は蹴鞠の名手でした

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JR島本駅西のまちづくり ~文化財保護行政3~

2021年01月23日 | もっと文化を!そして歴史を!
12月の一般質問「もっと文化を!埋蔵文化財保護行政と歴史文化基本構想」(要約:文責とだ)*つづき

少し長いです。毎回、時間が足りない!という思いでいますが「NHKの朝ドラ」は15分、フィギュアスケートのフリー演技は数分であれだけのことが表現できるのだ、と自分に言い聞かせています(余談です)。

越谷遺跡とJR島本駅西のまちづくり
越谷遺跡が非常に重要です。2017年の夏、岬状の州浜の痕跡と思われる地形から、御所ヶ池の南が池であった可能性が高いと水無瀬殿研究の第一人者からご指摘いただきました。


真っ先に浮かんだのは、なぜか宇治の平等院の鳳凰堂の苑池、もともとは藤原道長の別荘「宇治殿」でした。後鳥羽上皇をこよなく尊敬していた後水尾天皇の修学院離宮の周辺地形との類似性にも気づきました。

南山城の浄瑠璃寺の池と本堂の姿(宇治の平等院に似ているが規模が小さい)などを思うと、桜井に同様の浄瑠璃世界が描かれていた可能性は十分にあると思います。

問:戸田
JR島本駅まちづくり委員会において参考人・前川氏は、池の汀と思われるとして、当該箇所、岬状の地形の保存を主張されていた。最低限、再度の調査による記録保存を求めておられたと思う。どのようなご発言があったか。

答:都市創造部長
第4回JR島本駅西地区まちづくり委員会(2020年11月17日)、参考人から、名神高速道路拡幅時の調査の際、御所ヶ池で発見された汀を例にあげられ、岬状の地形の保全を主張されていたものと認識する。

また、岬状の地形の詳細がはっきりしない状況において工事を実施するのであれば、発掘調査を実施のうえ記録として残す必要性を主張されていたものと認識する。

御所内、御所池、六条殿、薬師堂の庭、御堂前などの字名があることから、桜井の重要性は久しく研究者から指摘されていました。


昭和34年夏、7月から9月にかけて名神高速道路沿線史跡調査の一環として、奈良国立文化財研究所員が中心となり、広瀬・桜井地内にある水無瀬離宮跡と伝桜井御所跡の実測調査が行われています。←府教委の依頼による

ただ、この段階では後鳥羽上皇や鎌倉時代に関連づけるまでには至っていません。古記録が正確さを欠くきらいはあるとしたうえで、桜井は桓武天皇王子円満院法親王の桜井御所跡と伝えている(地元の伝承)とされていました。

このとき調査を担当された森蘊(おさむ) 氏(日本庭園史学の基礎を築かれた)は、執筆された『遺跡庭園の調査 水無瀬離宮跡並びに伝桜井御所跡の調査』(奈良文化財研究所)を次のように締めくくられています。

「いずれも類例の稀である平安・鎌倉時代宮園遺跡として、文化史上最も重要なものであることが確実となった上は地下遺構の記録保存することのできるよう、今後、工事現場との連絡を緊密にされたいものです。」

日本庭園史学の第一人者・森蘊 氏のご指摘から半世紀を経た今、記録保存の蓄積に加えて、文献、地形的観点からの研究がようやく充実してきました。だからこそ、今、地形を壊すことはなんとしても避けたいのです。

森先生が実践されたという徹底的な文献資料の分析や、測量図と発掘調査との照合が必要で、島本町の場合、考古学に偏り過ぎていると、とだは思います。

問:戸田
改めて、越谷遺跡における岬状の州浜と思われる地形の保存協議を、土地区画整理組合、業務代行者・株式会社フジタと行っていただきたいと思うが、いかがか。今のままでは地区道路が敷設され、岬状の形状が壊されてしまう。その損失は計り知れない。

答:都市創造部長教育委員会
平成29年度に実施した土地区画整理事業に伴う試掘調査で遺構等の存在の確認ができなかったため、現時点では発掘調査の予定はないが、工事中に重要な遺構・遺物の存在を確認した場合は発掘調査を実施する予定としている。

なお、今回の尾山遺跡で見つかった池泉跡は、後鳥羽上皇配流後に造営されたものである可能性が高まっており、水無瀬離宮に関連する州浜の存在を裏付けるものではない、と聞き及んでいる。

そのため、町教育委員会の見解に沿って対応してまいりたいと考えているが、組合との設計協議等に際しては、まちづくり委員会でいただいたご意見等についてもお伝えするなど、可能な範囲で協議を行ってまいりたい。


後鳥羽上皇の隠岐配流後、この島本町がどのようであったかという意味で、日本史上、非常に重要な資料になると思います。

森氏の提言を踏まえて、文献資料の収集・保存・活用をもって継続的な研究を半世紀にわたり行っていたならば、桓武天皇王子円満院法親王の桜井御所跡という伝承とは異なる見解が得られていたかも知れません。

場合によっては、町営鶴ヶ池住宅跡地を売却する前に西浦門前遺跡の重要性が推測できていたかも知れず、島本町の歴史・文化・景観、まちづくりも、今とは違ったものになっていたとわたしには思えてなりません。

いずれにしても、水無瀬殿研究者が、膨大な資料、地形、浄土思想、風水学などから、桜井が水無瀬殿を構成する重要な地域であったという論理的推測にたどり着かれた課程において、岬状の州浜が果たした役割は極めて重要なものでした。

問:戸田
このたびの尾山遺跡池泉跡等の発見により、鎌倉時代、貴族の暮らしが当該地に及んでいたことは明らかである。桜井の重要性、州浜の存在の意義、桜井における水無瀬殿研究の信憑性は格段に高まったと言えるのではないか

答:教育こども部長
尾山遺跡で見つかった池泉跡等は、現地説明会後も調査を進め、現状では後鳥羽上皇配流後の13世紀中葉以降に造営された遺構である可能性が高まっている。

後鳥羽上皇が関与していなくとも、非常に精緻に造られており、相当の有力者の関与が窺える遺構で、当時においても桜井地区が重要な地域であったことが窺える。

西浦門前遺跡で水無瀬離宮跡に関連する庭園跡が見つかっていることから、水無瀬離宮跡の範囲が桜井地区まで拡がっていたことは明らだが、尾山遺跡周辺や御所ヶ池周辺まで拡がっていたということを明らかにする資料は、現在のところ今回の尾山遺跡の発掘調査では見つかっていない。

越谷遺跡内に存在する岬状の農地が水無瀬離宮跡に関連する州浜であることを裏付ける資料も見つかっていない。

だからこそ今後の研究を待ちたい。島本町史、日本史研究として、後鳥羽上皇配流後の当該地のあり方を調査することが町教委の役割ではないでしょうか。

問:戸田
さて、当該地はヒメボタル(陸生・森のホタルとも呼ばれる)の生息地。と同時に、宅地造成工事規制区域でもある。農住ゾーンの農の部分を活かし、越谷池からの水路を利用してビオトープ的な緑地あるいは農地とし、歴史的景観の一部として保存・活用するという選択を切望する。考えられる課題は。

答:都市創造部長
農住ゾーンは、民有地となる部分と、公共用地の緑地や道路等となる部分で構成されている。当該の州浜とされる部分について、仮に公共用地の緑地として町に移管される場合、設備の管理コストの課題などもあるが、ご指摘のような協議は一定可能であるものと認識する。現時点においても水を補充しない中でヒメホタルが生息している。

しかしながら、事業実現性を考慮し道路の敷設や換地設計等を行われるため、当該の州浜とされる部分が民有地に含まれる場合、都市計画上における規制等の枠内での土地利用を妨げることはできない。土地を所有される方の意向を尊重すべきものと考える。

なお、歴史的景観の保全については、JR島本駅西地区まちづくり委員会でも議論されている内容であることから、今後いただく予定の提言等をもとに、まちづくり全体のガイドラインとして作成してまいりたい。

尾山遺跡・越谷遺跡の歴史的・文化的価値は、JR島本駅西地区のまちづくりに付加価値をもたらし、また水無瀬神宮の存在価値をさらに高めるものです。島本町にとって、いえ日本史の観点から極めて重要なものと訴えました。 

つづく*

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越谷遺跡にのこる池の汀の面影(2017年夏)
岬状の州浜は歴史的美地形として
JR島本駅西のまちづくりに活かしたい

次回の第7回JR島本駅西地区まちづくり委員会(最終)
令和3年1月29日(金曜日)13時から
島本町役場3階 委員会室

詳細、傍聴についてはこちらから
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水無瀬学と史跡指定 ~文化財保護行政2~

2021年01月22日 | もっと文化を!そして歴史を!
12月の一般質問「もっと文化を!埋蔵文化財保護行政と歴史文化基本構想」(要約:文責とだ)*つづき

水無瀬学と史跡指定について
考古学に頼らない複眼的な視点が求められています。藤原定家の『明月記』など、文献による水無瀬殿研究からすれば、山崎から桜井方面まで、町域内のすべてが重要な地域です。


島本町教育委員会として水無瀬殿関連遺跡の内容とその価値を明らかにし、十分な知見を蓄えていかなければなりません。←ここ重要

第4回JR島本駅西地区まちづくり委員会において、参考人・前川佳代氏(考古学)がおっしゃった言葉をお借りして、わたしはこれを「水無瀬学」と呼びたいと思います。

問:戸田
埋蔵文化財分野においては「文化財保護法」に現状保存の理念が含まれていないことから、行政として可能な限りの現状保存を求めても、広瀬国木原遺跡、西浦門前遺跡がそうであったように、開発行為に伴って発見された遺跡の保存は容易ではない。

にもかかわらず全国各地で遺跡が保存され活用されているのはなぜなのか。史跡指定がなされているからではないか。保存と活用が行われている事例をどのように把握しているか。

答:教育こども部長
一般的に史跡指定は、埋蔵文化財の発掘調査だけではなく、歴史学や地理学などといった様々な学問分野から、その範囲、構造、性格などの検討を行い、検討委員会などを立ち上げて審議を重ねたうえで、その遺跡の情報がある程度詳細に把握できた時点で、国に意見具申するものであると認識する。

保存と活用についての事例として、例えば、高槻市には安満遺跡公園や今城塚古墳公園などの史跡公園があり、安満遺跡公園は昭和初期(1928)から発掘調査を進め、平成5年に民有地を史跡指定して以降、徐々に公有地化を進め、京都大学大学院農学研究科附属農場の移転に伴い、その跡地を追加指定して、安満遺跡公園として活用していると聞き及ぶ。

今城塚古墳公園は、昭和33年に史跡指定を受けた後に、約50年間かけて公有地化を進め、現在、史跡指定範囲のほぼ全域が公有地となり、公園として活用されている状況であると聞き及ぶ。

いずれにしても、今後の遺跡の保存と活用方法については、引き続き関係機関とも連携しながら調査研究していく必要があると認識している。


つまり展望を持って時間をかけて取り組む必要があります。国木原遺跡、西浦門前遺跡など、水無瀬殿関連の遺跡の発見は、広瀬、百山から桜井にまで展開される後鳥羽上皇の都市計画の思想を物語るものです。

今後も町域内から重要な遺跡・遺構が発見される可能性は十分にあります(広瀬・第一小学校のあたりで馬場跡など)。考古学的情報以外の資料から得られる情報も含め、総合的な見地から史跡指定を目指す必要があると考えます。

問:戸田
埋蔵文化財の平面的な拡がり、層位的な重なり、遺構や遺物の密度、遺跡の性格と重要度を把握し、適切に伝えることなく、遺構の原状保存への理解、協力は得られない。町教委はこれができていないのではないか。

答:教育こども部長
史跡指定するためには、その遺跡を詳細に把握する必要がある。水無瀬離宮跡の構造や性格等の詳細を明らかとするためにも、まず、その位置や範囲をある程度把握する必要がある。

しかしながら現在までの発掘調査では、水無瀬離宮跡の発見例は広瀬遺跡・国木原地区及び西浦門前遺跡の2例のみで、その範囲についてはほとんど判明していない。

そのような状況で、水無瀬離宮跡の詳細な情報を得るために広範囲に発掘調査や試掘調査を実施することは、費用・労力に対して効果が薄く、不要に文化財を破壊することにもなりかねない。

また、水無瀬離宮跡の中心となる埋蔵文化財包蔵地として指定されている水無瀬離宮跡や広瀬遺跡周辺はすでに市街化しており、広範囲に調査を実施するのは困難な状況。

本町では「島本町文化財保護条例」第18条第4項の規定により、埋蔵文化財包蔵地外の土木工事等においても教育委員会と協議するよう義務づけ、必要に応じて埋蔵文化財の調査を実施している。

引き続き埋蔵文化財包蔵地内外での土木工事等に伴う調査を実施し、その位置や範囲を把握してまいりたい。ある程度、位置や範囲を把握することができた段階で、水無瀬離宮跡の構造や性格を明らかにするためにどのような調査が有効であるかを検討してまいりたい。

埋蔵文化財について重要な発見があれば、その都度、そのときまでに蓄積した発掘調査成果や、その他の分野の研究成果をもとに事業主と発見された文化財の保存ができるように協議を行ってまいりたい。
つづく*

必見☆彡
尾山遺跡

2020年10月3日現地説明会資料


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高槻市・今城塚古代資料館にて
土師器が祭礼で使われる様子
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尾山遺跡の復元と活用 ~ 埋蔵文化財保護行政~ 

2021年01月12日 | もっと文化を!そして歴史を!
1月も半ばになりました。寒中お見舞い申し上げます。残念ながら、新型コロナウイルス感染症の流行状況が深刻になっていると辛い報道が繰り返されています。

今年は新年互礼会も出初式もなく、1月7日の会派代表者会議、議員全員協議会が仕事はじめとなりました。議会基本条例の制定に向けて最後の議論、調整を行いました。

年末年始は、やがて迎える任期満了(4月29日)を前に大量に溜まった資料に向き合いました。仕分け、処分、ファイリングを繰り返すうちに、できたこと、できなかったこと、これからやるべきことの整理ができました。楽しい作業でした。

今、もっとも取り組まなければならないテーマのひとつは文化施策です。

そもそも取り組まなければならないと思いながら、そのときどきの政策課題(JR島本駅西・保育環境・ごみ処理広域連携・新庁舎建設などなど)を調査研究するなかで、つい後回しになってしまっていました。

縁あって後鳥羽上皇の水無瀬殿(水無瀬離宮)のことを勉強する機会に恵まれ、島本町は天王山を挟んで都に近く、歴史的に重要な地域であったことがよく理解できました。

自慢にもなりませんが、実は地理歴史分野の基礎的知識が想像を絶するほどに乏しいです。仕事を通じて必死に理解しようとするうち、歴史考古学にたいそうロマンを感じるようになりました。

昨秋、JR島本駅西の開発に伴う埋蔵文化財発掘調査で鎌倉時代の池泉跡が発見され(桜井・尾山遺跡)、文化施策は名実ともに、もっとも取り組まなければならない重要なテーマになりました。

そんなわけで今年初めてのブログ記事は、令和2年(2020年)12月に行った質問「もっと文化を! 埋蔵文化財保護行政と歴史文化基本構想」とその答弁をつぶさにご紹介します。
※文責:戸田
※要約です。会議録は追って町HPに掲載されます。

尾山遺跡の復元と活用について
問:戸田
尾山遺跡の発掘調査において、これまでに発見された遺跡・遺構について、JR島本駅西土地区画整理組合、株式会社フジタとの協議の内容、特に鎌倉時代の池泉跡と発表された遺構の保存協議について、詳細、ご説明を。

答:教育こども部長 
JR島本駅西土地区画整理組合と、その業務代行者である株式会社フジタとの遺構の保存協議につき、発見された遺構の中で本町の歴史上重要であり、遺構の解釈についてある程度判断することができた池泉跡周辺の遺構について保存協議を進めている。

池泉跡が見つかった地点は公園建設予定地、その地下には調整池の埋設が予定されている。遺構が破壊されないよう開発計画の変更について協議を実施したが、調整池の形状を変更することはできないと聞きいた。

そのため、現在の位置の地中に保存することはできないが、池泉跡を文化財保護の普及啓発に活用するため、移築復元の場所などについては、今後の発掘調査結果なども踏まえながら事業主と協議を進めていきたい。

戸田:当該箇所は、調整池を設置するために深く掘る必要があり、遺跡があれば、当然破壊されてしまう。そこで記録保全を目的とした埋蔵文化財発掘調査を行われた。

埋蔵文化財の原状保存の原則により、発見することを目的にして掘り壊さない、すなわち発見には常に開発が伴う。ここに埋蔵文化財保護行政のもどかしさがある。

問:戸田
幸い、当該箇所は公園となる計画。遺跡を活用した公園とすることは十分以上に可能と考える。教育委員会、都市創造部の見解はどのようなものか。

答:教育こども部長
発見された場所に近い場所の地上に復元することが望ましいと考えている。そのことにより当時の周辺環境を想起することができ、最も文化財保護の普及啓発に有効と考える。

可能な限り遺構から近い場所に移築復元できるよう事業主と協議を進めてまいりたい。

遺跡を活用した公園としての整備については、JR島本駅西土地区画整理組合及び公園の所管である都市創造部と連携しながら、今後のあり方を検討してまいりたい。

答:都市創造部長
具体的な公園整備のあり方については、まちづくり委員会のご意見等も踏まえながら、当該土地区画整理組合と協議を重ねてまいりたい。まずは公園管理を所管する都市創造部と埋蔵文化財を所管する教育委員会において、遺構の活用も含め、検討してまいりたい。

戸田:まちづくり委員会でも、歴史を軸に闊達な意見が交わされるようになった。期待したい。学術的観点からすると移築は避けなければならない。同じ場所(その地上)での復元を目指すべき。

問:戸田
尾山遺跡の発掘調査は14工区に分けて行われる計画。このたびの池泉跡の発見を受けて、今後の調査をどのように強化するか。越谷遺跡についても再調査が必要と思うが、いかがか。

答:教育こども部長
このたびの鎌倉時代の池泉跡の発見を受け、周囲の調査地においても同様の遺構が見つかる可能性があること念頭により慎重に調査を実施するよう、実際に発掘調査を実施する公益財団法人大阪府文化財センターと考え方の共有を行っている。

越谷遺跡周辺については、平成29年度に試掘調査を実施しており、遺構が存在しないことを確認している。越谷遺跡周辺に残る平安時代前期の桜井御所跡の伝承や、近年、唱えられている越谷遺跡周辺に水無瀬離宮関連遺構が存在したとする説のことは認識している。

が、このたびの鎌倉時代の池泉跡は13世紀中葉以降のものである可能性が高く、これらの伝承や説に直結するものではないと考えている。

戸田:開発に伴う発掘調査において単独で遺跡の価値を判断すること、まして原状保存することは極めて困難。島本町が主体的に動かずして遺跡の保存・復元等はできない。また今回の遺跡をどう扱うかが今後に影響し、このことは水無瀬殿関連の遺構であるかどうかに関わらない。

つづく*

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桜井・尾山遺跡
池泉跡の西方面には
井戸の遺構も発見された
2020年10月3日現地説明にて
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速報‼ 桜井に眠っていた庭園遺跡?

2020年09月27日 | もっと文化を!そして歴史を!
JR島本駅西地区で行われている埋蔵文化財発掘調査※において、鎌倉時代の池跡と考えられる遺構が発見されました。

池跡は「後鳥羽上皇が造営した水無瀬離宮の施設の一部、もしくは後鳥羽上皇に近しい貴族が関与した施設の可能性がある」というのが島本町教育委員会の見解です。


※土地区画整理事業(開発)に伴う調査
名称:尾山遺跡
場所:桜井2丁目
時期:6月1日~

開発区域を対象に行われる埋蔵文化財発掘調査は、工事で壊されてしまうから調査するもので、実は文化財を「発見」するための作業ではありません。今日、発掘はそれすなわち破壊とみなされ「現状維持=掘らない」が基本になっているのだそうです。

今回、池跡が発掘された場所は、都市計画上、公園となる場所で地下に調整池が設置される、もしくは調整池を設置するためにその周辺が掘られるところ(安定勾配の確保)と思われ「壊されるからこそ発見された」ということになります。

開発の事業内容を変更してでも保存をめざすべきランクの遺跡かどうかの判断は、情報量が少ない現時点では判断できかねる、そういう状況になるかと思います。


さて、ここで、一度、埋蔵文化財について文言を整理(=頭の整理)してみることにしました。専門性がないのでこれが正確かどうかは正直自信がありません。主に株式会社島田組(本調査にかかわっていただいている)のHPを参考にしています。
以下、文責:とだ。

埋蔵文化財は大きく「遺跡」「遺構」「遺物」にわかれています。
遺跡
人が残したなんらかの痕跡のことで主に地中にあることが多い(古墳は地表のもの)。
遺構
色や質の変わる地質の境目をきれいに掘り抜くことで浮かび上がってくる昔の建物や川などの形状のことをいう。
遺物
昔の人が残した土器や石器など。

埋蔵文化財発掘調査にはいくつかの種類があります。
緊急調査 
発掘調査の多くは、開発によって失われてしまう可能性のある遺跡の情報を記録・保存しておくためのもので、このような目的でおこなわれる発掘を「緊急調査」というそうです。

学術調査
研究を目的としておこなわれる発掘。埋蔵文化財があるかないかを確認することや埋蔵文化財包蔵地の範囲などを把握するためにおこなわれるものです。

そのために、まず「試掘調査」あるいは「確認調査」と呼ばれる調査が行おこなわれると認識しています(ここ、あまり自信がありません)。

本調査
埋蔵文化財があると確認された場合、「本調査」が行われます。先に行った調査(試掘あるいは確認)で得られた情報にもとづいて、対象地の遺構の分布、全体の性格や範囲を調査します。

発掘調査全体の流れ
現場作業 ➡ 表土掘削 ➡ 遺構検出・掘削 ➡ 記録作業 ➡  空中写真・測量 ➡ 整理作業 ➡ 遺物洗浄 ➡  遺物復元 ➡ 遺物実測・デジタルトレース ➡ 遺物写真撮影 ➡ 報告書作成 

調査員、学芸員の社会的地位の向上が必要!とつくづく思った次第!

最後に遺跡調査の記録をまとめた報告書が作成されますが、この報告書は調査結果を研究者や市民、そして未来に広く公表する重要なものです。万が一の紛失、災害などで喪失しても記録が遺されるよう関係機関(図書館・研究所・府・他市町教育委員会など)に配布されています。

「埋蔵文化財発掘調査」で「埋蔵文化財」を調べることによってわかるのは昔の人たちの営みです。

ここに昔どんな道、庭、家があってどんな人たちがなにをして暮らしていたか(政・食事・遊び・仕事)を遺跡、遺構、遺物から紐解き想像するドラマチックな楽しさが考古学にあります。

今回の池跡(鎌倉時代)とその周辺遺跡についての詳細調査はまだまだこれからですが、広瀬(国木原)遺跡、西浦門前遺跡とあわせると、後鳥羽院の水無瀬殿、あるいはそれに近しい人に関係するものと判断できると思えます。

そうであれば、後鳥羽院、院政時代、水無瀬殿、どれをとっても研究対象として超一級です。また、離宮研究、庭園、国文学など多種多様な研究分野から注目されている日本国最高レベルの歴史遺産といえます。


後鳥羽院がこの水無瀬の地でつくろうとした都市の姿(都市計画・まちづくり)の解明は、日本の国家的プロジェクトに匹敵します(複数の識者からの指摘)。島本町の見解と行動に期待が寄せられていることを、まず、島本町民が心しておかなければなりません。

最近の研究では、後鳥羽院が実は公家と武家の両立する仕組みを目指したことが明らかになっているそうです。そのことの理解と水無瀬殿の存在を証明する遺跡の存在(保存・記録)が水無瀬神宮の名を改めて全国に轟かせ、なにより島本町民の郷土史理解の柱となることでしょう。


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水無瀬駅近くの洋菓子店
イル・リーブル(仏語で島・本)

美味しいソフトクリームを
ショーケースのケーキを愛でながら
イートイン☆彡(不思議な感覚)
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さてさて、水無瀬山はどこにある?

2020年09月03日 | もっと文化を!そして歴史を!
9月定例会議初日、今回の一般質問では、藤原家隆の和歌、西浦門前遺跡の発掘調査概要、その他複数の史料に基づき水無瀬山の位置について考察しました。

識者や住民の研究から得た知見や史料を基に、学芸員に確認して「よみがな」を打ってのぞみました。もうこれ以上先送りはできず、今のわたしの理解で行った質問です。

以下、抜粋、要旨。長文ですが分割せずに掲載します。

(Ⅱ)
「水無瀬山」はどこにある?
~西浦門前遺跡と和歌からの考察~


水無瀬山 せきいれし滝の 秋の月 おもひ出づるも 涙落ちけり

これは、鎌倉時代初期の公卿、歌人であった藤原家隆の和歌です。

水無瀬の滝は人工的なの?
家隆の歌にある「せきいれし滝」は、果たして水無瀬の滝なのか、という指摘、疑問からはじまりました。


町のHPには「水無瀬の滝は、天王山の西尾根から発した滝谷川が、天王山断層によって落ち込んでできた高さ約20メートルの清冽な滝で、水枯れをしたことがないという。」(にぎわい創造課)と紹介されています。

「せきいれし」の「せき」が、水を他へ引いたり流量を調節したりするために川水などをせきとめること、あるいは所(堰)をいうのであれば、冒頭ご紹介した藤原家隆の句にある「せきいれし滝」は、東大寺・水無瀬の滝ではなく、どこか別のところにある人工的なものと考えられます。

家隆の生きた時代、東大寺の水無瀬の滝の背後の山が水無瀬山と認識されていたとは考えにくい。水無瀬山の位置について、町として、どのように考えているのか見解を問いました。※ひとことでいうなら「諸説あります」的な答弁でした

西浦門前遺跡の庭園遺構
2014年(平成26年)6月、小野薬品工業株式会社の新研究棟(桜井3丁目)建設工事に伴う埋蔵文化財調査において、後鳥羽院の水無瀬殿の庭園跡と考えられる遺構が発掘され、そこには人口的な滝組の石が含まれていました。


「水を池に注ぐための施設である遣水跡、遣水から注がれる水を溜める小さな上の池、上の池の水があふれ、滝となって下の池へと流れ落ちる滝口である滝組の石、滝から流れ落ちる水を受ける大きな下の池、上の池に沿って並べられた景石(けいせき)から構成されていた」(HP・町立歴史文化資料館)

家隆がいうところの「せきいれし滝」ではないだろうか、と考えたくもなりますが、これについては慎重な考察が必要で、発掘調査結果の報告書を待たなければなりません。

古地図が重要です
江戸時代中期に活躍したという地図の考証家・森幸安(こうあん)の宝暦年間「摂津国地図」(国立公文書館蔵)によれば、水無瀬川を挟んで、水無瀬の滝は天王山側に、水無瀬山は桜井側に位置しています。明らかに、桜井、神内方面にある山を「水無瀬山」としています。


江戸時代後期の中川家御年譜(大分県竹田市教育委員会編)の「摂津図抄」でも水無瀬山は水無瀬川右岸、桜井側にあるとしています。これらの史料・古地図の存在を島本町教育委員会はどう考えているのでしょう。

古い絵図については、その信ぴょう性が疑わしものもあり、慎重に判断しなければなりません。実際、後の時代には、天王山・山崎方面の山を水無瀬山としている地図も存在します。

しかしながら、水無瀬殿が存在した時代、ここで生き、暮らした人びとが水無瀬山をどのように認識していたか、がむしろ重要です。

古文書にある水無瀬山
郷土史を研究されていた奥村寛純氏が編集・解読された『水無瀬荘資料集成Ⅰ寛政四年廣瀬村明細鑑記録』(郷土島本研究会)です。ここにある記述は注目に値します。

※島本町役場庁舎 文化情報コーナーにあります。島本町立図書館にもあるはずです。

「1803年・村方明細書上帳(むらかためいさいかきあげしょ)・廣瀬村」に、中堤川は川幅4尺、水無瀬山ゟ(より)流出、上牧村の洫(みぞ)へ流れ落ちている、とあり(151㌻)、また、「摂津國嶋上郡廣瀬村明細書」にも、中堤川は幅八尺ほどで川上は水無瀬山ゟ(より)流出、當村(とうそん)、すなわち廣瀬村へ掛り、というふうに書かれています(161㌻)。

水無瀬山は水無瀬川右岸に位置していると考えるのが妥当ではないでしょうか。


まとめ
縁あって、水無瀬殿の在りし日の姿を研究する機会に恵まれ、桜井の田園風景と背後の山並み、天王山、男山への眺望、石清水八幡宮との関係性など、すべて見事な、当時の都市計画であったと考えるようになりました。


廣瀬(国木原くぬぎのはら)遺跡、西浦門前遺跡における庭園遺構の発掘は、これまでの見解を見直す必要に迫られる大きな発見でした。

地形を生かした滝の石組のある庭園遺構が桜井3丁目で発見されたことは、桜井方面に水無瀬殿が広がっていたことを示唆しています。

御所ヶ池周辺にかろうじてその面影がのこされ、男山から日が昇り、背後の山に日が沈む、という太陽の軌道との関係性もみられます。日の昇る東方には浄瑠璃浄土、日が沈みゆく西方には極楽浄土が表現されていたかもしれません。

こういったことを、わたし自身が理解できるようになったとき、既に島本駅西側の開発計画は進んでいました。そのことにより、水無瀬殿を開発反対の理由にしている(反対のために利用している)との誤解を招いているとしたら、それはわたしにとってではなく、むしろ島本町にとってたいそう不幸なことです。

開発が進められるのであれば、後鳥羽院のまちづくりの思想が、JR島本駅西土地区画整理事業に活かされ、そのことによって街区の付加価値が高められるよう、町は最善を尽くすべきです。

そのためには、まず、島本町教育委員会が西浦門前遺跡を含む桜井の歴史文化的価値について公的な見解を示すこと。水無瀬殿研究における仮説的考察に寛容かつ謙虚に、柔軟性をもって協力的であることが重要と訴えました。


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2011年7月
JR島本駅西にて

あの頃
庁舎からの帰路
議会のあれこれに
ため息をつきつつ
ここで心を清めていました
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