とだ*やすこの「いまここ@島本」

暮らしの豊かさ最優先!
ひとが主役のまちづくり!

大阪府島本町議会議員
とだ*やすこの活動報告

速報‼ 桜井に眠っていた庭園遺跡?

2020年09月27日 | もっと文化を!そして歴史を!
JR島本駅西地区で行われている埋蔵文化財発掘調査※において、鎌倉時代の池跡と考えられる遺構が発見されました。

池跡は「後鳥羽上皇が造営した水無瀬離宮の施設の一部、もしくは後鳥羽上皇に近しい貴族が関与した施設の可能性がある」というのが島本町教育委員会の見解です。


※土地区画整理事業(開発)に伴う調査
名称:尾山遺跡
場所:桜井2丁目
時期:6月1日~

開発区域を対象に行われる埋蔵文化財発掘調査は、工事で壊されてしまうから調査するもので、実は文化財を「発見」するための作業ではありません。今日、発掘はそれすなわち破壊とみなされ「現状維持=掘らない」が基本になっているのだそうです。

今回、池跡が発掘された場所は、都市計画上、公園となる場所で地下に調整池が設置される、もしくは調整池を設置するためにその周辺が掘られるところ(安定勾配の確保)と思われ「壊されるからこそ発見された」ということになります。

開発の事業内容を変更してでも保存をめざすべきランクの遺跡かどうかの判断は、情報量が少ない現時点では判断できかねる、そういう状況になるかと思います。


さて、ここで、一度、埋蔵文化財について文言を整理(=頭の整理)してみることにしました。専門性がないのでこれが正確かどうかは正直自信がありません。主に株式会社島田組(本調査にかかわっていただいている)のHPを参考にしています。
以下、文責:とだ。

埋蔵文化財は大きく「遺跡」「遺構」「遺物」にわかれています。
遺跡
人が残したなんらかの痕跡のことで主に地中にあることが多い(古墳は地表のもの)。
遺構
色や質の変わる地質の境目をきれいに掘り抜くことで浮かび上がってくる昔の建物や川などの形状のことをいう。
遺物
昔の人が残した土器や石器など。

埋蔵文化財発掘調査にはいくつかの種類があります。
緊急調査 
発掘調査の多くは、開発によって失われてしまう可能性のある遺跡の情報を記録・保存しておくためのもので、このような目的でおこなわれる発掘を「緊急調査」というそうです。

学術調査
研究を目的としておこなわれる発掘。埋蔵文化財があるかないかを確認することや埋蔵文化財包蔵地の範囲などを把握するためにおこなわれるものです。

そのために、まず「試掘調査」あるいは「確認調査」と呼ばれる調査が行おこなわれると認識しています(ここ、あまり自信がありません)。

本調査
埋蔵文化財があると確認された場合、「本調査」が行われます。先に行った調査(試掘あるいは確認)で得られた情報にもとづいて、対象地の遺構の分布、全体の性格や範囲を調査します。

発掘調査全体の流れ
現場作業 ➡ 表土掘削 ➡ 遺構検出・掘削 ➡ 記録作業 ➡  空中写真・測量 ➡ 整理作業 ➡ 遺物洗浄 ➡  遺物復元 ➡ 遺物実測・デジタルトレース ➡ 遺物写真撮影 ➡ 報告書作成 

調査員、学芸員の社会的地位の向上が必要!とつくづく思った次第!

最後に遺跡調査の記録をまとめた報告書が作成されますが、この報告書は調査結果を研究者や市民、そして未来に広く公表する重要なものです。万が一の紛失、災害などで喪失しても記録が遺されるよう関係機関(図書館・研究所・府・他市町教育委員会など)に配布されています。

「埋蔵文化財発掘調査」で「埋蔵文化財」を調べることによってわかるのは昔の人たちの営みです。

ここに昔どんな道、庭、家があってどんな人たちがなにをして暮らしていたか(政・食事・遊び・仕事)を遺跡、遺構、遺物から紐解き想像するドラマチックな楽しさが考古学にあります。

今回の池跡(鎌倉時代)とその周辺遺跡についての詳細調査はまだまだこれからですが、広瀬(国木原)遺跡、西浦門前遺跡とあわせると、後鳥羽院の水無瀬殿、あるいはそれに近しい人に関係するものと判断できると思えます。

そうであれば、後鳥羽院、院政時代、水無瀬殿、どれをとっても研究対象として超一級です。また、離宮研究、庭園、国文学など多種多様な研究分野から注目されている日本国最高レベルの歴史遺産といえます。


後鳥羽院がこの水無瀬の地でつくろうとした都市の姿(都市計画・まちづくり)の解明は、日本の国家的プロジェクトに匹敵します(複数の識者からの指摘)。島本町の見解と行動に期待が寄せられていることを、まず、島本町民が心しておかなければなりません。

最近の研究では、後鳥羽院が実は公家と武家の両立する仕組みを目指したことが明らかになっているそうです。そのことの理解と水無瀬殿の存在を証明する遺跡の存在(保存・記録)が水無瀬神宮の名を改めて全国に轟かせ、なにより島本町民の郷土史理解の柱となることでしょう。


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水無瀬駅近くの洋菓子店
イル・リーブル(仏語で島・本)

美味しいソフトクリームを
ショーケースのケーキを愛でながら
イートイン☆彡(不思議な感覚)

女性目線で災害対応力を強化

2020年09月21日 | 防災・減災=災害に強いまちづくり
避難所運営における男女共同参画
島本町第5次総合計画基本計画(2019年度・令和元年に策定)には、防災などにおける女性の参画の必要性が明記されています。女性が自ら自主的に考え、災害時に避難所開設や運営に参画するためには平時からの訓練が要となります。



長く、女性には概して「炊き出し訓練」「災害を想定した調理実習」などの役割が期待され、これはこれでたいそう重要なものですが、旧来の性別役割分担に基づいたものであり時代にあわなくなってきています。次世代の参画につながりにくいということです。

女性を災害弱者としてのみとらえるのではなく、女性の目線や能力をいかにして活かしていくかが重要で女性が意思決定の場に参画できる環境整備が必要です。「平常時の備え」がものをいうことになります。


防災行政における女性職員の育成
そうはいっても危機管理室への女性職員の配置なくして、自主防災組織への女性の参画や役員への登用促進、男女双方の視点に立った避難所運営を求めるのは無理があるように思えました。

研修会の開催、市民との交流、子育て支援課・いきいき健康課など関係部局との連携、避難所運営など各種マニュアルの改訂・運用など女性職員ができることは多いはずと考えました。

そこで、今回の委員会では「女性が意思決定の場に参画できる環境整備の最たるものは危機管理室への女性職員の配置ではないでしょうか。」と人事課に問いました。

これに対する答弁のなかで『災害対応力を強化する女性の視点~男女共同参画の視点からの防災・復興ガイドライン~』(令和2年5月内閣府男女共同参画局)が紹介されました。

男女共同参画の視点からの防災・復興ガイドライン
以下、同ガイドらいんから抜粋して紹介します。※概要

<防災・危機管理担当部局では女性職員が少ない>
多くの地方公共団体において、防災・危機管理担当部局の女性職員比率は、組織全体の女性職員比率と比較して極めて低くとどまっている。

※東京大学社会科学研究所の調査
市町村の防災・危機管理担当部局の女性職員比率は 6% 程度
女性管理職比率は 2.5% 程度

災害関連業務は緊急対応が必要になる業務も多いことから男性の配属が優先される領域と考えられていること、女性職員がほとんどいない職場のため定着が困難などが背景にあると推測される。

<女性職員の配置が、防災対策に女性の視点を組み込むきっかけに>
人口の半分は女性であり、被災した場合に支援を要する人も女性が半数以上を占めることが想定される。女性の視点から必要な施策を考え、地域防災計画や各種マニュアルに反映させ、発災時には女性の困難やニーズに的確に応えることが必要。

防災・危機管理担当部局の職員の男女比率は、少なくとも庁内全体の職員の男女比率に近づける必要がある。←ここ重要

<防災・危機管理担当部局と男女共同参画担当部局等が連携し、組織全体の理解浸透に取り組む>
女性の視点からの災害対応は、男女共同参画担当部局のみならず、防災・危機管理担当部局や福祉担当部局、人権担当部局等の各部局において、男性職員を含めて全ての職員が持つべき視点。

防災・危機管理担当部局と男女共同参画担当部局・男女共同参画センターとが連携して、庁内で災害対応をする可能性が高い全ての職員に対し、女性の視点からの災害対応の研修を行うことが有効。←抜粋ここまで

実は、この質疑答弁には、傍聴席からブツブツ文句を言う女性議員があったりで辟易しましたが(2019年度の決算なのに2020年のことに言及した?!というのが理由:イチャモン&嫌がらせとしか思えない)これまで主張してきたことが国のガイドラインに書いてある!のですから内心(やった!)という気持ちです。

質疑で、正しいこと、当たり前のことを言えば変わると思ったら大間違いで、行政が動きやすい根拠を示すことができなければ、そう簡単には動きません。

まずはこの『災害対応力を強化する女性の視点~男女共同参画の視点からの防災・復興ガイドライン~』(令和2年5月内閣府男女共同参画局)を読み込み、平時からできる防災・復興に女性の参画=災害対応力を強化を進めていきます。


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これはなんの花でしょう
葉はヤマモモに似ていました

山田町長任期3年目の評価は?

2020年09月19日 | とだ*やすこの町政報告
島本町議会は、ふたつの常任委員会において、令和元年度歳入歳出決算審議を終えました。次は9月30日の本会議場で各会派、議員が認定、不認定の結論を表明します。

さて、令和元年度島本町一般会計歳入歳出決算(総務建設水道常任委員会所管分)=山田町長の任期3年目の評価です。とだやすこはこれを不認定としました。



新庁舎建設見送りをめぐって
令和元年9月に議員全員協議会において、新庁舎建設事業をいったん先送りにすることを余儀なくされていると報告を受けました。6月に新庁舎建設基本計画を公表、この間たったの約2カ月です。


その後、庁舎の耐震化という重要課題であるにも関わらず、庁内で闊達な議論がなされていたとは思えず、約一年、方向性さえも示されませんでした。

また、庁舎建替実施設計の見送りは、保育所の整備や運営、三小の整備等に多くの経費を要し、継続して財政負担が大きくなるからとの説明ですが、これが解せません。

なぜなら、これらは庁舎建設基本計画をつくった際にすでに認識できていたはずです。このことは大綱質疑で中田議員が厳しく指摘しました。

さらに、総務建設水道委員会のあとに開かれた民生教育消防委員会では、質疑によって保育所の整備に費やされた金額が明かされました(正確な数字メモできず、追って確認します)。その金額が庁舎を止めるほどの規模でないことは明白です。

なぜ、こんなことになっているのでしょう。まさか来春4月に町長選を控え、山田町長の再選はあると思うな、場合によっては高槻市との合併、そうなれば庁舎は要らない、というような横やりがあったの???と勘繰ってしまいたくなります。



なぜ、認定しなかったのか
さて、庁舎の耐震化課題に関わって不認定とした主な理由は、担当課の組織体制を強化する、人事配置を考える、ここが見逃され放置されていたことが問題、深刻な事態を招いてしまったと感じているからです。

また、慎重審議、熟議を経てなされたというよりも、国の時限的特定財源(市町村役場機能緊急保全事業による地方債)を得るため、かなり拙速に進めたことが招いた結果と考え、わたしはここを問題視しています。

基本構想の策定さえ行わずに急いだものを、いまさら先送りにするのです。場所の選定を含めて複数のプランを検証したうえで基本構想、基本計画を策定する必要がありました。何十年に一度の一大事業なのですから。



広域行政?合併議論とリンク?
財政が厳しいと繰り返されますが、そのひとつの根拠となるのは普通会計中期財政収支見通しです。参考資料としては秀逸であっても、あくまでも参考指標で、この数値が政治的に利用されることがないよう心しなければなりません。

庁舎建設もままならない、島本町は単独ではやっていけない局面にある、とされるなら、それはミスリードに等しいことです。庁舎耐震化は島本町にとって必要不可欠なもの、近隣自治体との広域連携はできません。

それにしても、中途半端な新庁舎建設事業を行って不合理な財政負担と職務環境の不具合に悩み続けることになるのは断固として避けなければなりません。

庁舎が建てられないほど財政がままならないというのであれば、ふれあいセンターを活用すべきではないか、と思うわけです。合併よりは現実的。財政状況が理由であるならば、ということです。

まちづくりの戦略としてはJR島本駅西地区での建設を検討するのが望ましいと、わたしは今でも思っています。←一年前にも同様の意見を述べています。


新型コロナ感染症拡大によりリーマンショックを超える影響が予測されるところですが、2019年度・令和元年度の島本町の税収は比較的良好で、財政構造の弾力性を示す経常収支比率も97.2%と実は前年より4.5%改善しています。

実は、評価すべき点が多かったこともあり賛成の討論を準備していました。が、そのなかで、う~んこれは、と急遽不認定を決めました。認定としたのは河野議員(共産党)のみ、総務建設水道常任委員会では賛成少数で不認定となりました。


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京都国立博物館にて
西国33か所の信仰と至宝
聖地を訪ねて

飛鳥時代の小さな仏さま
その愛らしいお姿に合掌
心中、フィギア!と叫ぶ

震災から学ぶ、まちづくりの合意形成

2020年09月06日 | ☆彡しまもと景観まちづくり
とだやすこの『ひとまち語らい広場』

阪神・淡路大震災25年
神戸の震災から学ぶ、まちづくりの合意形成(講演会)




おはなし:野崎隆一さん 
神戸まちづくり研究所理事・㈱遊空間工房代表取締役
一級建築士



2020年10月3日(日)
午後1:30~3:30
島本町ふれあいセンター3階・第4学習室



大震災は「都市開発」が実は安心や豊かさを生みだしていなかったことを明らかにしました。豊かさとはなにか。それは人びとの暮らしと地域からみることで生まれてくるものではないでしょうか。

阪神・淡路大震災から25年。住民が主体のまちづくりをテーマに、全国各地で震災復興に今なお深く関わっておられる野崎隆一さんと一緒に考えます。

【申し込みが必要です】
ブログ・コメント欄に、お名前、住所、連絡先をお知らせください
※感染症対策に必要とされています。ご協力をお願いします。


*発熱、体調不良などの症状のあるかたはご遠慮ください
*参加される方はマスクを着用してください
*当日の検温にご協力ください
*密接・密集を避けるため定員を縮小します
*今後の社会情勢によって延期する場合があります

主催:とだ*やすこ
ひとが主役のまちづくり 暮らしの豊かさ最優先! 

新型コロナウイルス感染症の感染拡大で延期していた講演会を、蜜を避けて開催するものです。
議員活動報告『いまここ*島本』第37 号(2020年夏号)でもお知らせしています。



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在りし日の面影
JR島本駅西から天王山をのぞむ
2016年9月


さてさて、水無瀬山はどこにある?

2020年09月03日 | もっと文化を!そして歴史を!
9月定例会議初日、今回の一般質問では、藤原家隆の和歌、西浦門前遺跡の発掘調査概要、その他複数の史料に基づき水無瀬山の位置について考察しました。

識者や住民の研究から得た知見や史料を基に、学芸員に確認して「よみがな」を打ってのぞみました。もうこれ以上先送りはできず、今のわたしの理解で行った質問です。

以下、抜粋、要旨。長文ですが分割せずに掲載します。

(Ⅱ)
「水無瀬山」はどこにある?
~西浦門前遺跡と和歌からの考察~


水無瀬山 せきいれし滝の 秋の月 おもひ出づるも 涙落ちけり

これは、鎌倉時代初期の公卿、歌人であった藤原家隆の和歌です。

水無瀬の滝は人工的なの?
家隆の歌にある「せきいれし滝」は、果たして水無瀬の滝なのか、という指摘、疑問からはじまりました。


町のHPには「水無瀬の滝は、天王山の西尾根から発した滝谷川が、天王山断層によって落ち込んでできた高さ約20メートルの清冽な滝で、水枯れをしたことがないという。」(にぎわい創造課)と紹介されています。

「せきいれし」の「せき」が、水を他へ引いたり流量を調節したりするために川水などをせきとめること、あるいは所(堰)をいうのであれば、冒頭ご紹介した藤原家隆の句にある「せきいれし滝」は、東大寺・水無瀬の滝ではなく、どこか別のところにある人工的なものと考えられます。

家隆の生きた時代、東大寺の水無瀬の滝の背後の山が水無瀬山と認識されていたとは考えにくい。水無瀬山の位置について、町として、どのように考えているのか見解を問いました。※ひとことでいうなら「諸説あります」的な答弁でした

西浦門前遺跡の庭園遺構
2014年(平成26年)6月、小野薬品工業株式会社の新研究棟(桜井3丁目)建設工事に伴う埋蔵文化財調査において、後鳥羽院の水無瀬殿の庭園跡と考えられる遺構が発掘され、そこには人口的な滝組の石が含まれていました。


「水を池に注ぐための施設である遣水跡、遣水から注がれる水を溜める小さな上の池、上の池の水があふれ、滝となって下の池へと流れ落ちる滝口である滝組の石、滝から流れ落ちる水を受ける大きな下の池、上の池に沿って並べられた景石(けいせき)から構成されていた」(HP・町立歴史文化資料館)

家隆がいうところの「せきいれし滝」ではないだろうか、と考えたくもなりますが、これについては慎重な考察が必要で、発掘調査結果の報告書を待たなければなりません。

古地図が重要です
江戸時代中期に活躍したという地図の考証家・森幸安(こうあん)の宝暦年間「摂津国地図」(国立公文書館蔵)によれば、水無瀬川を挟んで、水無瀬の滝は天王山側に、水無瀬山は桜井側に位置しています。明らかに、桜井、神内方面にある山を「水無瀬山」としています。


江戸時代後期の中川家御年譜(大分県竹田市教育委員会編)の「摂津図抄」でも水無瀬山は水無瀬川右岸、桜井側にあるとしています。これらの史料・古地図の存在を島本町教育委員会はどう考えているのでしょう。

古い絵図については、その信ぴょう性が疑わしものもあり、慎重に判断しなければなりません。実際、後の時代には、天王山・山崎方面の山を水無瀬山としている地図も存在します。

しかしながら、水無瀬殿が存在した時代、ここで生き、暮らした人びとが水無瀬山をどのように認識していたか、がむしろ重要です。

古文書にある水無瀬山
郷土史を研究されていた奥村寛純氏が編集・解読された『水無瀬荘資料集成Ⅰ寛政四年廣瀬村明細鑑記録』(郷土島本研究会)です。ここにある記述は注目に値します。

※島本町役場庁舎 文化情報コーナーにあります。島本町立図書館にもあるはずです。

「1803年・村方明細書上帳(むらかためいさいかきあげしょ)・廣瀬村」に、中堤川は川幅4尺、水無瀬山ゟ(より)流出、上牧村の洫(みぞ)へ流れ落ちている、とあり(151㌻)、また、「摂津國嶋上郡廣瀬村明細書」にも、中堤川は幅八尺ほどで川上は水無瀬山ゟ(より)流出、當村(とうそん)、すなわち廣瀬村へ掛り、というふうに書かれています(161㌻)。

水無瀬山は水無瀬川右岸に位置していると考えるのが妥当ではないでしょうか。


まとめ
縁あって、水無瀬殿の在りし日の姿を研究する機会に恵まれ、桜井の田園風景と背後の山並み、天王山、男山への眺望、石清水八幡宮との関係性など、すべて見事な、当時の都市計画であったと考えるようになりました。


廣瀬(国木原くぬぎのはら)遺跡、西浦門前遺跡における庭園遺構の発掘は、これまでの見解を見直す必要に迫られる大きな発見でした。

地形を生かした滝の石組のある庭園遺構が桜井3丁目で発見されたことは、桜井方面に水無瀬殿が広がっていたことを示唆しています。

御所ヶ池周辺にかろうじてその面影がのこされ、男山から日が昇り、背後の山に日が沈む、という太陽の軌道との関係性もみられます。日の昇る東方には浄瑠璃浄土、日が沈みゆく西方には極楽浄土が表現されていたかもしれません。

こういったことを、わたし自身が理解できるようになったとき、既に島本駅西側の開発計画は進んでいました。そのことにより、水無瀬殿を開発反対の理由にしている(反対のために利用している)との誤解を招いているとしたら、それはわたしにとってではなく、むしろ島本町にとってたいそう不幸なことです。

開発が進められるのであれば、後鳥羽院のまちづくりの思想が、JR島本駅西土地区画整理事業に活かされ、そのことによって街区の付加価値が高められるよう、町は最善を尽くすべきです。

そのためには、まず、島本町教育委員会が西浦門前遺跡を含む桜井の歴史文化的価値について公的な見解を示すこと。水無瀬殿研究における仮説的考察に寛容かつ謙虚に、柔軟性をもって協力的であることが重要と訴えました。


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2011年7月
JR島本駅西にて

あの頃
庁舎からの帰路
議会のあれこれに
ため息をつきつつ
ここで心を清めていました