選挙の街宣車の原稿をつくっていて夜更かししてしまいました。来週の火曜日が告示日です。まだまだ、やらなければならないことがありますが、「ないもの」を数えたり気にしたりする時期はもうとっくに過ぎています。素晴らしい仲間に支えられて、この厳しい選挙、まれにみる激戦にしっかりと向きあっています。さて・・・
昨秋企画開催した「ウイスキーのふるさと・山崎を歩く」に参加してくれた学生とファエイスブックでつながり、彼ら呟きや発信を興味深く読んでいきました。教えられることが実に多く、誠実で、謙虚で、実に頼もしく思います。
いつだったかOさんの書いた「ファミレスの民主主義」をここに掲載します。フェイスブック的には「シェアする」といいます。島本町の将来像を語り合う会(戸田主催)に参加してくれ、2次会で参加者とおおいに語り合ったなかから生まれた発想なのだそうです。興味深く読みました。
「ファミレスの民主主義」
民主主義は巷で言われるほどよいものなのか。
もちろん、弊害ばかりを強調しすぎてもいけないが、イメージよりも万能なものではないことは確かだ。
例えば、複数人でファミレスに行ったとしよう。この場合に、メニューを決める最も民主的な方法は何か。
答えは、「くじ引きをして代表者を決め、その人が全員分のメニューを決める」だ。
勘の良い方はお気づきだろうが、これは必ずしも良い結果を生まない。
言うまでもないが、これが少人数なら話は早い。例えば5人だとしたら、代表者が一人ずつ、食べたいもの、好きなもの、嫌いなものを聞き、注文すればいい。おそらく多くの人はそれくらいの努力は当たり前にやる。そして皆、一応、高いレベルの満足と幸福は得ることができるだろう。
(もしかしたら中には、これさえ面倒なので、何もきかないで独断で全員分注文する代表者もいるかもしれない。でも、「ちょっと待って。俺、食べたいものあるから自分で頼むわ。」というのは許されない。なぜなら、くじで選ばれていないその人に特権を与えることになるからだ。非民主的なのだ。)
しかし、それが10人、15人、30人、50人、100人、500人・・・と増えたらどうだろうか。
それでも全員の希望を聞く、という人は滅多に存在しない。かっこつけずにいうと、少なくとも僕なら聞いて回ろうかと思うのは、上に書いたことでいえばせいぜい15人までだ。これについて、注文を取るための効率的なやり方はどれだけでもあるだろうが、現実問題、それをやっている暇がない。
時間は無限ではないのだ。店には閉店時間がある。たとえそれが無くとも、それぞれ終電の時間や門限がある。あるいは明日の用事に備えて早く帰りたい人もいる。
こういった状況でどのようにメニューが決められるかといえば、たとえば次のようになる。
「とりあえず、みんなでつまめるピザとかポテトとか頼んどくか。文句無いだろ。」
「ここは洋食レストランだから、肉料理を人数分頼もう。あ、三分の一は魚料理にしとこう」
「あんまりお腹減ってないし、好きじゃないし、お金も使いたくない。みんなもそうだよね。一番安いやつください。」 ・ ・ ・ 等々
これらの選択は決して悪いわけではない。例え多くの人にとって悪い結果になったとしても、その代表者に全て責任があるわけではない。くじ引きというシステムを合意しているという点で、皆の責任なのだから。
しかし、ピザが嫌いだったり、ポークロースソテーが食べたかったり、お腹が減っていたり、さらに言えばデザートにチョコレートパフェが食べかったりする人は、この場合幸せになれない。もちろん、自分の中で折り合い付けて納得するといったことはあるだろうが、心底満足することはできない。
さて、このような場合、こういう考えを持つ人が居る。
「食べたいなら、パフェ食べたいって言えばいいのに。」
そうなのだ。言えばいいのだ。または言いにくいなら誰かに伝えてもらえばいいのだ。
「人間関係的なものがこじれるから遠慮します」という類いの、また別の理由云々はとりあえず置いておいて、ここで重要なことは
「パフェ食いてえなー。パフェ来たら絶対食べちゃうぜー。」と心のなかでいくら思っていても、『パフェ(幸せ)は永遠にやってこない』
ということだ。そして、もう一つ重要なことは「『別に代表者の意地悪や無能さで注文されていないのではなく』、そりゃ伝わらないよね・・・というか『知らない』よね、私がパフェ食べたいことはね」となるはずだということである。
間違っても、「俺が送ったテレパシーに気づけよ!」とか「私、パフェほしそうな顔してたんだけど、なんで気づかないかなあ!」とは、まずならないだろう。(極端な例外は除く。)
そして、「今度はちゃんと言おう」とか「こういう時、私の代わりに伝えてくれる友達作ろう」とか「パフェじゃないけど帰りにアイス買って帰ろう」とか考えたり考えなかったりしながら帰路につく。
―――ファミレスの話なら、こうなる。
何が言いたいのかといえば、現実の民主主義政治もこれとほぼ同じだということである。
冒頭の「くじ引き」はこの場合、少なくとも目的とするところにおいて「選挙」とほぼ同義だ。
いま、ぼくたちは約1億人でひとつのファミレスにいるようなものだ。
しかも今度は代表者、すなわち政治家は、大きな権限を持つ人から小さな決定権を持つ人まで、何人もいる。小規模の代表者は同じ机を囲んでいる人の中にいるか、もしくは同じフロアには居るので勇気次第で話しかけられるが、より大きい決定権を持つ代表者とはたとえ話したくとも、そもそもなかなか出会う機会が持てない。
窓はあるがカーテンが閉まっているので外は目視できないが、店内の人々は外に自分の子供たちや後輩たち(=未来の有権者たち)が入店希望のために待機していることは皆知っている。
そのような状況の中、自分のため・自分たちのため・未来の入店者のため、店内の雰囲気を良くしていかなければならない。そうするのが義務だとは言わなくとも、その方が好ましいことには多くの賛同があるだろう。
では、どうすれば、雰囲気がよくなるか。簡単である。
みんながそれぞれの食べたいものにありつければ良いのだ。満足のいく食事をしながら、仲良くなった人と食卓を囲めばいいのだ。
そのためにはやはり、ハンバーグが食べたい人は「ハンバーグ・・・来ないかなー・・・」と騒がしい店内でつぶやくだけではなくて、「ハンバーグが食べたいんだ!」ということを、大きな権限のある代表者たち(政府・国会議員)に声を届けなければならない。直接が困難なら何らかの方法で、オーダーに反映させなければならないのだ。
繰り返しになるが、一人一人の満足は店内全体のよい雰囲気づくりのもとであろう。それはあなた自身のためでもあり、実は周りのみんなのためでもあるのだ。
ところが、現実はその努力を怠り、戦略を考えることなしに、上の喩えでいう、「テレパシーを受け取らない」ことに怒り、政治不信を唱える人が多い気がする。
テレパシーは極端な例なので、そこまではいかないにしても、「食べたそうな顔してることくらい分かれよ。」の言い換えで、「わからないのは、やはり無能だからだ。」という不平不満はわからなくもないので、政治家側の責任というのもないわけではないのだろうが、政治家も同じ人間なので能力のずば抜けて高い人物などそうざらにはいないし、無能なら無能で、こちらにもできることは少なからずあるのだ。
行動しよう。
まあ、もっと詳しくいえば、「ファミレスのことばっか考えてられないよ。明日、仕事あるんだもん。」(合理的無知)とか、さらにいろいろ難しいことが現実にはあるので、そこも考えないといけません。ま、そんなところまではみんながみんな、考えなくてもいいのかもしれませんけどね。
長々とすみません!シェアしたい方はご自由にどうぞ!
昨秋企画開催した「ウイスキーのふるさと・山崎を歩く」に参加してくれた学生とファエイスブックでつながり、彼ら呟きや発信を興味深く読んでいきました。教えられることが実に多く、誠実で、謙虚で、実に頼もしく思います。
いつだったかOさんの書いた「ファミレスの民主主義」をここに掲載します。フェイスブック的には「シェアする」といいます。島本町の将来像を語り合う会(戸田主催)に参加してくれ、2次会で参加者とおおいに語り合ったなかから生まれた発想なのだそうです。興味深く読みました。
「ファミレスの民主主義」
民主主義は巷で言われるほどよいものなのか。
もちろん、弊害ばかりを強調しすぎてもいけないが、イメージよりも万能なものではないことは確かだ。
例えば、複数人でファミレスに行ったとしよう。この場合に、メニューを決める最も民主的な方法は何か。
答えは、「くじ引きをして代表者を決め、その人が全員分のメニューを決める」だ。
勘の良い方はお気づきだろうが、これは必ずしも良い結果を生まない。
言うまでもないが、これが少人数なら話は早い。例えば5人だとしたら、代表者が一人ずつ、食べたいもの、好きなもの、嫌いなものを聞き、注文すればいい。おそらく多くの人はそれくらいの努力は当たり前にやる。そして皆、一応、高いレベルの満足と幸福は得ることができるだろう。
(もしかしたら中には、これさえ面倒なので、何もきかないで独断で全員分注文する代表者もいるかもしれない。でも、「ちょっと待って。俺、食べたいものあるから自分で頼むわ。」というのは許されない。なぜなら、くじで選ばれていないその人に特権を与えることになるからだ。非民主的なのだ。)
しかし、それが10人、15人、30人、50人、100人、500人・・・と増えたらどうだろうか。
それでも全員の希望を聞く、という人は滅多に存在しない。かっこつけずにいうと、少なくとも僕なら聞いて回ろうかと思うのは、上に書いたことでいえばせいぜい15人までだ。これについて、注文を取るための効率的なやり方はどれだけでもあるだろうが、現実問題、それをやっている暇がない。
時間は無限ではないのだ。店には閉店時間がある。たとえそれが無くとも、それぞれ終電の時間や門限がある。あるいは明日の用事に備えて早く帰りたい人もいる。
こういった状況でどのようにメニューが決められるかといえば、たとえば次のようになる。
「とりあえず、みんなでつまめるピザとかポテトとか頼んどくか。文句無いだろ。」
「ここは洋食レストランだから、肉料理を人数分頼もう。あ、三分の一は魚料理にしとこう」
「あんまりお腹減ってないし、好きじゃないし、お金も使いたくない。みんなもそうだよね。一番安いやつください。」 ・ ・ ・ 等々
これらの選択は決して悪いわけではない。例え多くの人にとって悪い結果になったとしても、その代表者に全て責任があるわけではない。くじ引きというシステムを合意しているという点で、皆の責任なのだから。
しかし、ピザが嫌いだったり、ポークロースソテーが食べたかったり、お腹が減っていたり、さらに言えばデザートにチョコレートパフェが食べかったりする人は、この場合幸せになれない。もちろん、自分の中で折り合い付けて納得するといったことはあるだろうが、心底満足することはできない。
さて、このような場合、こういう考えを持つ人が居る。
「食べたいなら、パフェ食べたいって言えばいいのに。」
そうなのだ。言えばいいのだ。または言いにくいなら誰かに伝えてもらえばいいのだ。
「人間関係的なものがこじれるから遠慮します」という類いの、また別の理由云々はとりあえず置いておいて、ここで重要なことは
「パフェ食いてえなー。パフェ来たら絶対食べちゃうぜー。」と心のなかでいくら思っていても、『パフェ(幸せ)は永遠にやってこない』
ということだ。そして、もう一つ重要なことは「『別に代表者の意地悪や無能さで注文されていないのではなく』、そりゃ伝わらないよね・・・というか『知らない』よね、私がパフェ食べたいことはね」となるはずだということである。
間違っても、「俺が送ったテレパシーに気づけよ!」とか「私、パフェほしそうな顔してたんだけど、なんで気づかないかなあ!」とは、まずならないだろう。(極端な例外は除く。)
そして、「今度はちゃんと言おう」とか「こういう時、私の代わりに伝えてくれる友達作ろう」とか「パフェじゃないけど帰りにアイス買って帰ろう」とか考えたり考えなかったりしながら帰路につく。
―――ファミレスの話なら、こうなる。
何が言いたいのかといえば、現実の民主主義政治もこれとほぼ同じだということである。
冒頭の「くじ引き」はこの場合、少なくとも目的とするところにおいて「選挙」とほぼ同義だ。
いま、ぼくたちは約1億人でひとつのファミレスにいるようなものだ。
しかも今度は代表者、すなわち政治家は、大きな権限を持つ人から小さな決定権を持つ人まで、何人もいる。小規模の代表者は同じ机を囲んでいる人の中にいるか、もしくは同じフロアには居るので勇気次第で話しかけられるが、より大きい決定権を持つ代表者とはたとえ話したくとも、そもそもなかなか出会う機会が持てない。
窓はあるがカーテンが閉まっているので外は目視できないが、店内の人々は外に自分の子供たちや後輩たち(=未来の有権者たち)が入店希望のために待機していることは皆知っている。
そのような状況の中、自分のため・自分たちのため・未来の入店者のため、店内の雰囲気を良くしていかなければならない。そうするのが義務だとは言わなくとも、その方が好ましいことには多くの賛同があるだろう。
では、どうすれば、雰囲気がよくなるか。簡単である。
みんながそれぞれの食べたいものにありつければ良いのだ。満足のいく食事をしながら、仲良くなった人と食卓を囲めばいいのだ。
そのためにはやはり、ハンバーグが食べたい人は「ハンバーグ・・・来ないかなー・・・」と騒がしい店内でつぶやくだけではなくて、「ハンバーグが食べたいんだ!」ということを、大きな権限のある代表者たち(政府・国会議員)に声を届けなければならない。直接が困難なら何らかの方法で、オーダーに反映させなければならないのだ。
繰り返しになるが、一人一人の満足は店内全体のよい雰囲気づくりのもとであろう。それはあなた自身のためでもあり、実は周りのみんなのためでもあるのだ。
ところが、現実はその努力を怠り、戦略を考えることなしに、上の喩えでいう、「テレパシーを受け取らない」ことに怒り、政治不信を唱える人が多い気がする。
テレパシーは極端な例なので、そこまではいかないにしても、「食べたそうな顔してることくらい分かれよ。」の言い換えで、「わからないのは、やはり無能だからだ。」という不平不満はわからなくもないので、政治家側の責任というのもないわけではないのだろうが、政治家も同じ人間なので能力のずば抜けて高い人物などそうざらにはいないし、無能なら無能で、こちらにもできることは少なからずあるのだ。
行動しよう。
まあ、もっと詳しくいえば、「ファミレスのことばっか考えてられないよ。明日、仕事あるんだもん。」(合理的無知)とか、さらにいろいろ難しいことが現実にはあるので、そこも考えないといけません。ま、そんなところまではみんながみんな、考えなくてもいいのかもしれませんけどね。
長々とすみません!シェアしたい方はご自由にどうぞ!