神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

珍 確定申告の巻

2024年03月03日 09時33分40秒 | yottin日記
3月早々、再び雪国に逆戻り


年金だけになった収入では確定申告の必要はないのだけれど、スマホに国税庁からの催促が届くから、パソコンを開いて「国税庁」のページをから確定申告を始めた。
所得税もないのに所得税のページから入る滑稽さ、やって見ればいつもと同じで最後は「所得税は0円です」「確定申告の必要はありません」と去年と同じ。
三年前までは10年間ほど、今の要領で自分で確定申告をやって、税務署のポストに投函していたが、あの頃はやるたびに年末調整での戻り分の倍くらい追加徴収されていた

今はほんとに何もないから、僅か10分で終わってしまう、控除分にはまだ医療費控除も利用できるが、それなど入れなくてもゼロになるので、無駄な労力は使わない。
確定申告の必要はありませんと国税庁では言うが、「但し、住民税の必要がある場合があるので市役所で聞いてください」との但し書き
ポケットをひっくり返しても所得税どころかホコリも出ないので、役所に行くのも無駄かと思ったが、すっきりしたいから昼前に市役所へいってみた
当然ながら、確定申告コーナーが特設で設けられて受付をしていたが、そっちにはいかないで市民課の市税窓口へ行って、問いかけてみた
ここで話が終われば、確定コーナーで時間待ちをすることもない
若い職員が私が作った申告書(の一歩手前)を見て、「ご案内します」と申告会場に案内してくれた、すぐに奥から担当の女性が(これがなんと片足ぴょんぴょんで飛び跳ねて)やって来た

これは絵になる、いや映画になる、またそのキャラクターも映画にはばっちりの中年女性職員(片足ぴょんぴょんで近づいてくる市の職員を連想してみてください、映画でしょ)思わず「どうしたんですか?」と聞いてしまった
そしたら「私が悪いんです、不注意でケガしてしまって」とマスク越しに言ったから(これはますます映画になる)と思った。

「で! あなたが担当ですか?」と聞いたら「はい、そうです、こちらの席に」と言って、ぴょんぴょんと片足ゲンパで先導、思いがけず、待ち時間なしでやってもらうことに
改めて「確定申告の必要はないと国税でいいますが、ここの但し書きには市役所に問い合わせくださいと書いてあるので来たんです」と言ったら
「そのとおりですね、税務署は所得税の申告で、市は住民税の申告になりますから、所得税が無くても住民税の申告はした方が得になる場合があります
収入は年金だけなんですよね」と言って、(それなら、お得になるかも)みたいな顔
なんか住民税でも均等割りと、複数の収入があった場合の所得割みたいなのがあって、現役の時は所得税とWパンチで追加払いにな泣かされたものだった
それが清貧の暮らしになったとたん「均等割りだけですね」と言われて、嬉しいような、情けないような・・・まあ「人生はプラスマイナスゼロ」がモットーの私にとって「ケセラセラ」のうち、予定通りの人生。

「来年もまた必要ですか?」と聞いたら、「ええ、御主人生命保険に加入されていますから、また来年もおいでください」とのこと
生命保険が納税のキーワードなのか、また謎が一つ増えた、来年来たら聞いて見よう
などと思いつつ、全て忘れて、また来年も市の窓口で「申告の必要あるんですかね?」とやっちゃうんだろうな。






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 29

2024年03月02日 20時20分51秒 | 甲越軍記
 楚の人、申包胥の曰く「天定まって而してのち人に克ち、人定まって而してのちに天に克つことあり」
暴虐不仁の信虎であるが、いったん時勢を得て心のままに栄えている
天文六年までに一族類葉の人々を滅ぼし、あるいは従えて今は甲州に弓ひく者は一人もいない。
駿河は富士郡、下方郡まで切り取り、信州は平賀を攻め滅ぼし、佐久郡までも掠め取ったが、暴悪の性によって心から服する者などいなかった。
また累代の忠臣と言えども小身の者は身上を没収され、あるいは誅殺された
そのような心は晴信にも向けられ、晴信の他を超越した才能を妬み、なんとしてでも二男信繁に家督を譲ろうと謀り、晴信に少しでも落ち度があれば、それを理由に廃嫡しようとすれども晴信は一分の隙も見せることが無かった。
その年はいつとなく暮れて、いよいよ信虎の頭の中は晴信廃嫡のことでいっぱいになった、どのようにしてくれようかと頭を悩ませていた。

今川家は当時足利家の一族で、代々諸礼故実の家柄であるのを思い出し、諸礼稽古を口実に晴信を今川家に誘い進めてここに追いやり、その間に信繁に家督を譲る方法を思いついた。

正月二十日、板垣駿河守を呼んで「汝、晴信のもとに行き、こう申せ、今川義元の推挙で官位も賜った、今川とそなた(晴信)はまことに懇意の間柄である
晴信の性格は愚かではないが辺鄙な田舎育ちであるから、なんとなく諸事に無骨なところがある、こののち自然に上洛の機会も訪れて高貴な方々にお目見することもあろうが『田舎人よ』と笑われることも悔しいであろう
すみやかに駿河に参って義元に従い三年五年の間、諸事作法を見習って参れ、と申し付けよ」

これを聞いた板垣はすぐに(これは晴信君を廃嫡するつもりだな)と悟ったが顔にはあらわさず、晴信の館に出向いて「これこれしかじか」と話すと晴信もそれを聞き、漠然として信形の顔を見つめたまま声を発することがなかった。
それから信形を近くに招いて
「館が某を今川に遣わせる下心は晴信を追い落とし、左馬之助に家督を譲ると言うことではないだろうか、汝は館の真の胸の内を知らぬことはあるまい、包み隠さず申すがよい」
信形は晴信の耳の近くに顔を寄せて囁くには「某も館の真は知り申さぬ、されど晴信さまのご明察と某が思うところは一致しているかと思われます
たとえお屋形を諌めようとも、聞く耳持たぬは明白、甘利備前守、飫富兵部少輔を招き御評定を巡らせて当家の長久の方策を立てるべきと」と答えて信虎の元に立ち帰り
「仰せの通り、晴信さまに申し上げたところ『かしこまり賜る』とのお返事を承りました、『されど今節多少の疲れがありますので暫しの猶予をいただき、それから駿府へ赴きます』との返事でありました」
これを聞いて信虎は不審の面持ちになり(一言の不審も申さぬとは聡明な晴信であるから、もしや気づいたのではあるまいか)と思った。

晴信は屋敷に甘利、飫富を招き、更に穴山伊豆守信行、小山田備中守も招いた、板垣は言うに及ばず。


夢を見ながら春を待つ

2024年03月02日 08時44分35秒 | ライフスタイル
 2月は暖かくて春のようで、本当に気持ちがよかった
後半からは、また陰湿な冬に逆戻り、さっぱり気分が盛り上がらない
3月2日 深夜 また の雪の原 
昨日は激しい雷が鳴り響く、冬の雪下ろしと云う奴だ
春がまた、遠ざかった
ともだちのつーくんは孫とスキー場に行って、うまく滑ったそうだ
もうスキーを脱いで40年くらい経つ私には考えられない
寒い冬は散歩以外のアウトドアは考えられない



こんな時は夢を見るに限る、春になったら何しようかな
いろんな夢がある いろいろやりたいことがある
地図を見て夢を膨らまそう

窓にはまたアラレがあたって来た








「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 28

2024年03月01日 18時55分20秒 | 甲越軍記
 教来石民部景政は今年18歳、累代の家柄で祖は摂津守頼光四代の孫、源三位頼政の後胤。
大手より一番乗りした景政は自ら槍を取って敵兵七人を討ち取り、更なる敵を求めていたところ、無人の野を行く如く向かうところ敵なしの平賀入道と出くわした。
互いに「よき敵」とたちまち一騎打ちが始まり、その激しさに周囲は誰一人として手出しできず、いよいよ無双の勇士二人の闘いはいずれが勝つともしれず、延々と続いた。

景政が槍を繰り出した瞬間、源心は樫棒を振り下ろすと槍は中途から真っ二つに折れて飛んだ
景政は直ちに槍を投げ捨てると、捨て身のもろ手で源心の懐に飛び込み抱きつくと、勢いに押されて源心はどっと倒れ、樫棒が手から離れた。
二人は今度は素手での取っ組み合いとなり、上へ下へとくんずほぐれつ転げまわった、これまた剛勇の二人故、なかなか勝負がつかない
源心は30人力とも言われる怪力だが、景政もそれに劣らぬ強兵ゆえに勝負がつかない
しかし、さすがの源心も年齢と昨日から続く戦の疲れが次第に出てきて足腰の踏ん張りにも力が入らなくなり、つまづき倒れ込んだところに景政が胸の上に乗っかり、ついに平賀入道の首を取った。
景政は大声を張り上げて「この頃、信州で鬼神と呼ばれた平賀源心を教来石民部景政が討ち取った」と言えば、城方の兵は「もはや守る者は失われた」と言って我先に城から逃れ出た。
それを勝ちに乗じて攻め方が追いかけて次々と首を取り、その数知れず、晴信の初陣はかくして余りある戦果を挙げたのであった。

やがて空が白々と明け、辺りが明るくなると晴信は命じて城内にくすぶる火を消させ、捕虜を先頭に源心の首を持って甲府館に引き上げた。
甲府に到着すると、信虎は源心の首を一瞥しただけで賞賛もせず
「源心を討ち取ったといえども佐久一帯にはいまだ残党どもが充満しているではないか、戦を知る大将であれば城に留まり、儂の元へ使者をたてて下知を待つのが当たり前であろう、二郎丸ならばそなたのような愚かなことはしないだろう
おまえは臆病者故、城を捨て急ぎ逃げて来たのだ、賞するなどもってのほかなり」と家臣たちの前で罵った。
晴信は慣れたもので顔色一つ変えず聞き流したが、周囲の家臣たちは皆信虎の罵詈雑言にあきれ果て憎んだ。

晴信は、初陣にて得た源信の首であったので大門峠(*信州白樺湖の近く)と言う地に葬り、地蔵尊の石像を造立した。
これ初陣の習わしで敵の首級を得たならば追福作善を行うのが古今の例である

昔、右大将頼朝卿が伊豆国から起こり給う時、八牧判官を夜討ちして、その首を得た時、走湯山の覚淵阿闍梨に依頼して法華経で霊を弔ったとか。




お寺にて、いろいろ思うこと

2024年03月01日 07時11分31秒 | 宗教
 2月中旬すぎには5月の温かさが続いていたのに、今は2月らしい灰色の空、寒い日々に戻った。
うるう年の今日は29日、4年に一度の2月29日、友引のこの日に伯母さんの葬送の儀式は行われた、まさかこの日に大谷選手の結婚します宣言を聞くとは、なんとも印象深い日になった。(記事は昨日書いた)

子供の頃は、お寺=お墓でずいぶん怖い場所だった
この年になってみて前職柄、住職とも親しく話すようになって
寺は博物館、美術館の要素が非常に高く、ご本尊もそれぞれ異なっていて、それを拝見するのもなかなかに楽しい。

若い人の葬儀は家族の顔をまともに見ることができないほど悲しいけれど、高齢者の葬儀は、なぜかみな思い出話をして穏やかな雰囲気のことが多い。
いろんな話の中で心に残ったのは、伯母さんの言葉
「こんな良い世の中になって、死んでなんかいられない、長生きする」という言葉だった、「こんな良い世の中」のフレーズがなんかほのぼのと爽やかだった
とかく、バブル時代を思い出して「今の時代は」とトーンダウンしてしまう自分が、伯母さんに「がつ~ん」と一発くらったような気がした。

伯母さんの一人息子である従兄は私と同期生で、妹の亭主とクラスメート、そして住職は一年先輩で、みな気心が知れている
この町では浄土真宗大谷派が圧倒的に多く、この寺は数少ない浄土宗、住職は19代目だとか、すでに20代目も40代半ばで、そろそろ代替わりか?
お御堂の正面の欄間が立派な彫り物になっているので見とれて、副住職に「いつごろのもの」かとお聞きしたら200年以上前のもので、狩野派の流れを組む職人の作品だと言っていた。
私は寺の中を見るのが好きだが、近年はセレモニーホールでの法事が多くなって、なかなか見られる機会がない。


コロナ以後、法事も大勢の人を集めることが無くなり、家族葬、近親者だけでというのが大部分だ
そんな時代だからこそ、寺院で葬式以外の法事をやっても良いのではないかと思う、寺院も昔と違って椅子を用意して正座ということもなくなった
暑さ、寒さ対策も気を使っている寺が多くなった、トイレだって最新式にしてあったり、寺の改革もずいぶん進んでいる。
改めて寺院での法事を見直すのも良いのではないだろうか。