先に認識力をロウソクやプロジェクターの光に例えたが、似た話を思い出したので書いておきたい。
法華経の序品に釈尊が無量義処三昧の禅定に入ったとき、白毫が光を放ち東方一万八千世界を照らし出すというシーンが描かれている(爾時仏 放眉間白毫相光 照東方万八千世界)。白毫(びゃくごう)とは佛の額にあるポッチのことで、あれは白い毛の塊である。
佛というのは光を放つ存在であるようである。金身つまり金ピカで光り輝いているし、光背というオーラがあったりする。佛光明という智慧と慈悲の光でその世界をを照らしていてそれが浄土といわれるものである。
我々もまた周囲にプロジェクターで光を発しているが、佛のように清浄なものでないから照らし出されたその世界も汚れたものとなる。、自己世界はどんな光を発するかで決まってくるのである。