普勧坐禅儀には「念想観の測量を止めて」とあり、また、正法眼蔵坐禅儀には「念想観にあらず」とある。これについて前に自説を展開したところである。
今回、ネット上で普勧坐禅儀の解説文を拾ってみると次のように多岐に渡ることが分かった。
分類してみると、念想観を一つの観とみるもの。
「思いを一つに固着させようとなどというはからい」
「思慮分別をめぐらしてある一つの観念をすること」
「自らへと向かう思慮分別の働きである」
曖昧だが一括の言葉として解釈していると思われるもの。
「思慮分別をめぐらしていろいろ考えること」
「頭で何かを考えること」
「一切思量を巡らすこと」
念想観を念、想、観と三つの働きとみるもの。
「心に念が浮かぶことも意識に想像することも、何かを観じるという認識作用も働かせること」
私の考えと同じなのは最後の1件だけである。
驚いたことに前段の三つは曹洞宗の僧侶のものである。
しかし、澤木興道老師は「坐禅の仕方と心得」という本の別のところで念想観察という言葉を使っていたのでここも念、想、観と心の働きを分けて考えていたのだと思う。
ところが最近、念、想、観を重視する坐禅、瞑想なるものがりに関心を持つ人が人が増えている。
念・重視のマインドフルネス。想・重視の瞑想、観・重視の五感禅である。
これは心を念、想、観に集中することで、コロコロする心を繋ぎ止める働きがある所詮は心の問題、頭の働きの問題である。
下図は内山老師の「天地いっぱいの人生」という本にある老師の自作の挿絵である。
頭を空っぽにしてこそ首が繋がるのである。
仏法つまり生命の実物は、不得不知(無知亦無得)、無我、空、尽十方界真実人体、無量無辺等、つまりは無限ということである。
気づきがどうとか、何たらかんたら、有限なるものをいくら積み上げても無限には届かないのである。
坐禅している本人が「無限」と錯覚しているだけではないですか?
無限とは、意識で捉えようがないということです。
捉えたものは限定されたものです。