十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

秋月龍珉師の「誤解だらけの佛教」14

2018年05月19日 | 佛教

第4章 「輪廻」説をどう超えるか
「輪廻」など信じない佛教がある

 佛教は確かに「輪廻」転生の説を前提として説かれてきた。それは事実である。だからと言って、輪廻説は佛教説であるとは言えない。輪廻を信じない私のような佛教徒もいる。古代のインド人は輪廻を事実として信じて疑わなかった。そんな人々を相手に法を説かれた釈尊が、輪廻説を前提として話されたことは自然であった。生きた説法は必ず対機説法ーー人見て法を説くーーなのだから。四道輪廻ないし六道輪廻については、すでに述べた。しかし、釈尊その人は、はっきり輪廻説を超えていた。「もう私はどこにも再生しない、私は生死(輪廻)を解脱した」と言い、「後有(アフター・
ライフ)を受けない」と宣言された。だから、覚者(佛陀)と成ってのちの釈尊が自ら輪廻など信じたはずは、断じてない。

 輪廻転生などというのは、古代インドの民衆(知識人も含めて)が信じていた神話にすぎない。そんなものを信じなくても、佛教はりっばに成り立つ。でも、神話だからと言って、むげに捨ててはならない。現代の私たちは、古代人が神話として伝えたことのなかにひそむ実存理解を取り出して、それを現代的に捉え直すことが大事である(これはキリスト教学からの学びであるが)。

 もうだいぶ以前のことである。当時著名であった曹洞宗の師家のかたが小庵を訪ねてくださったことがある。そのときこう言われた、「秋月先生、最近は困ったことに、(三世因果)を否定する佛教徒が出て来ました」。そこで、私は言った、「私も(三世)など信じません」と。そのかたは、一瞬あっけにとられて、声を飲まれた。               

  確かに、「因果の道理、歴然として私なし」である。いや、「因果の理法」は、佛教だけでなく、近代科学の基本理法でもある。しかし、佛教は「因ー果」だけでなしに、「因ー縁ー果」をいう。すなわち「原因」をさらに、〝直接原因(因)″と〝間接条件(縁)″とに分かつ。いわゆる「因縁生起ー縁起ー縁生」である。蓮の実の一粒には、芽を出し茎を延ばし花を開く因がひそむ。しかし、それが千年前の土器とともに地中深く埋もれていたのでは、そうした実は生じない。それを大賀一郎博士が地上に取り出して、育てられた緑によって、善光寺池の大賀蓮として花開いた。その実がまた都下町田市に移し植えられて、もなかの実となって、ときに私もいただいて珍菓として愛好している。それが「因ー縁ー果」の道理である。

 君たちは、有りもしない自我に執われて、その我執のゆえに欲望を起こして苦しんでいる。だが、自我というのは五蘊皆空(色・受・想・行・識)ないし六人(眼・耳・鼻・舌・身・意) の構成要素(法) の因縁仮和合の縁起によるものであって、実は無我である。

 何一つ〝常一主宰″の(常住で、唯一で、主宰者である) 「我」(アートマン)などという
ものは無い。諸行は無常であり、諸法は無我である。だから、君たちは、涅槃寂静の菩提(悟り)に自覚むべきである。 - 釈尊は、その私のいう「(無我の我)の覚なる悟り」を、まず弟子たちにこう説かれた。

 「無我」説は初期佛教の中心思想であり、「縁起」はその「無我」を説明するための法(教え)であった。そこを「因果の道理」という。そこで佛教徒は、断じて因果を撥無してはならない。しかし、それは何も「三世の因果」を信じなければならない、ということではない。「三世」など否定しても、「因果」の道理は、ちゃんと成り立つ。現世だけでよい、前世や来世の話など、まったく必要ない。

 「三時業」(前世・現世・来世にわたる業)を信じないのは「断見外道」だ、と道元さんは言うが、これは道元さんの哲学的思惟の不徹底さのせいである。すでに言ったように、釈尊ははっきり「不受後有」と宣言して、来世を否定している。釈尊にとって「三時業」など問題でなかった。輪廻を信じない佛教がある、というゆえんである。三世など持ち出さなくても、「因果」(縁起)説は成り立つ。私は常に言う、「禅佛教者はただ(即今・当処・自己)しか問題にしない」。そして「即今」とは(過去・現在・来世)がそこに於いてある「絶対現在」(永遠の今)である。

ーーーー
(一法のコメント)

 この部分は佛教を信奉している人の一番誤解しているところなので、省略せず全文掲載した。
とにかく、道元禅師さえも間違っているところなのである。

 三時業の間違いは、因果応報の捉え方である。善因善果、悪因悪果で何か因を作れば必ず果を受ける。その世で受けなくても次の世で必ず受けるのだという論理である。この論理のおかしさは前提として次の世が想定されていることである。必ず報を受けるのだからそこにその者が存在していなければならないと理屈である。死は報を受けるはずの者がいなくなっているのだから、死者は報の受けようがないのである。因があるのに果がないのはおかしいと短略的に考える、そんな考えが何千年もまかり通って来たのである。

 因果応報の道理は、こういうことである。
例えば、親が借金を残して死んだとする。残った借金は負の相続財産、子が払わなければならない。子が払えないと相続放棄すれば貸した者は貸金を回収できずその者の損失となる。報は生き残っている誰かが負わなければならないということである。

(追記)
昨日は将棋の藤井聡太六段が昇段のかかった試合で勝利し、最年少記録で七段に昇格した。
うっとおしいニュースの中で清々しい気分を味わわせてくれる貴重な存在。年内八段目指し頑張れ!!

 

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