左は「漢辞海 第四版」、右は「第二版」
明清代の雰囲気を感じさせる字典
この字書を開くと昔の中国の雰囲気が味わえるような感じがする。なぜかというと典拠となる古代文字は「説文解字」のみ。「説文解字」はその成立(紀元100年)以後、字書の聖典とされ、清代になっても研究書の「説文解字注」や、同書の内容を音符順に再編成した「説文通訓定聲」が出版されるなど、大きな影響力を保った字典である。
「全訳 漢字海」は、その「説文解字」略して「説文」を古代文字とし尊重して編集をしているのである。なぜか? 初版(1999年)の監修者である戸川芳郎氏は「『漢字海』は、いまここに公刊の時を告げる。その内容は日本語を表記する漢字の語彙を編集したものでない。原来の漢字によって表記された漢語(Chinese language)にたちもどることを企図したものである。つまり古漢語そのものを学習するための漢字辞典を編纂したのである」(「監修者のことば)より」と語っているように、中国に連綿として伝承されてきた純粋な漢語を編集した字典なのである。つまり、この字典は「漢文」の学習・研究に役立つ字典として企画されたのである。
収録字数は12,500字。収録熟語は約50,000語。1,800ページ。小型サイズ(H18.5㎝)。
さて「説文解字」と言えば1900年前の書物。この聖典をもとにどんな編集をしているのか。例のごとく「午ゴ」を引いてみる。
午ゴ・うま・さからう
[筆順]重要漢字のため筆順が示されている。
[語義]一[名]①十二支の第七位。十干と組み合わせて方位や年月日を表す。うま。ア時刻では午前12時ごろ、また、午前11時から午後1時まで。イ方位では南。ウ動物では馬・エ五行では火に当てる。②正午。午前12時。③姓。
二[形]①縦横に交わるさま。十字状の。「午割」
三[動]①そむく。さか-らう。サカ-ラフ。[通]忤ゴ。[例]「其衆以伐有道」(訳文:其の衆に午らいて以て有道を守る者をうつ[礼・袁公問])②出迎える。むか-える。ムカ-フ。[通]迕ゴ。[例]「午其軍取其将」(その軍隊を迎撃して将軍を捕らえる[荀・富国])
※例文に訳文・出典が必ずついている。
[なりたち][説文]の字形を図示。「象形。啎(さか)らう。五月を表し、このとき陰気が陽気に逆らい、大地を冒して出てくる。これ(午)は「矢」と同じ意である。」
[釈名]「午」は「仵ゴ」である。陰気が下から上がって陽気と仵逆ゴギャクする(ぶつかりあう)のである。(釈天)
※主要な字に[釈名]を引用しているのは、その字の由来をさぐるのに役立つ。
[名前](古訓の名残を伝えるもの)ま。
[熟語]として11語を列挙し解説を付す。[後熟語]として4語を表示。
杵ショ・きね
[語義]①米をつく道具。上が細く下が太い堅い木で作る。きね。②土壁などをつき固める木槌。③衣をうつ木槌。「砧杵チンショ」④大きな盾。「漂杵ヒョウショ」(=血の海に大盾が浮かぶ)
[なりたち]「説文」の字形を図示。形声。「臼でつくきね。木から構成され「午」が音。」
[名前]き[難読]「杵築きつき」
[熟語]として「杵臼交」(ショキュウのまじわり)[成語]出典と内容の説明がある。
許キョ・ゆるす
[筆順]がある。重要漢字のため。
[語義]A一 動詞①ゆる-す。ア承諾する。イ賛成する。ウ信ずる。エ期待する。②[女子が]婚約する。※すべての項目に例文とその訳語がつく。B「許許ココ」とは、[畳字]で、労働のときのかけごえ。「よいしょよいしょ」など。
二[名]①ところ。もと。②春秋時代の国名。③姓
三[代]①これ。②このように。これぼどに。③なぜ。なに。
四[形]①たくさん。おおい。
五[助]①~ほど。ばか-り。②かなり。やや。③文末に置き、感嘆の語気を表す。
熟語として、13例。[後熟語]として7例あり。
[なりたち][説文]の字形を図示。形声。「聴きしたがう。言から構成され、午が音。」
滸コ・キョ・ほとり
[語義]Aコの音。①水辺。きし。ほとり。「水滸スイコ」
Bキョの音。地名用字。「滸浦キョホ」(江蘇省の地名)
[なりたち]説明なし。説文にないため。
忤ゴ・さからう
[語義][動]①そむく。くいちがう。さか-らう。サカ-ラフ。さか-う。サカ-ウ。例文と訳文を表示。
[なりたち]なし。説文にないため。
[熟語]として6語をあげる。
「全訳 漢字海」の特長
以上、午の主な音符字を一覧してみて、この字典の特長をあげてみたい。
(1)漢文学習の目安となる重要漢字を2600字選定し、背景などを目立つ表示にしたうえで詳細な解説をしている。
(2)[なりたち]の項目で[説文]の字形がある場合は図示し、[説文]の文章を口語訳で説明している。
(3)[語義]では、意味を[名](名詞)[動](動詞)[形](形容詞)[代](代名詞)などに分けて意味を述べている。これは他の字典には見られない特長である。
(4)各項目の例文で取り上げた文章には、読み下し文と、その口語訳を必ず掲載している。字書の最初に「全訳」がつく由縁である。これにより漢文の読解力が養われる。
古代文字がなぜ「説文解字」を中心とする編集となっているのか。
午は現在の字書では「杵の原字」とされており、仮借(当て字)で干支の午になったと説明される。しかし、漢字海では「象形。啎(さか)らう。五月を表し、このとき陰気が陽気に逆らい、大地を冒して出てくる。これ(午)は「矢」と同じ意である。」とあり、午が十二支の五月にあたることから陰陽五行説で説明している。午の意味は、もとの意味がなんであれ、干支の第7位に当て字されているのであるから、この説明で特に問題はないと思われる。「甲骨文字辞典」も午の甲骨文字には杵の意味は見られないとする。そして杵(きね)の意味も漢字海では、「臼でつくきね。木から構成され「午」が音。」と説明されている。形声の説明であり特に問題はない。
また、許キョのなりたちについても、「聴きしたがう。言から構成され、午が音。」と形声の説明である。残りの、滸コ・キョ・ほとり、忤ゴ・さからう、については説文にないので、なりたちの項目がない。
古代文字といえば、すぐに甲骨文字や金文を思い浮かべるが、甲骨文字がはじめて見つかったのは二十世紀初めのことである。金文も本格的に研究が始まったのは宋代以降であった。説文の著者・許慎が古代文字を研究対象にしたのは、主に篆書(春秋戦国時代に始まった字体(大篆)で、秦の始皇帝のとき小篆として整理された)であった。許慎はいろんな字体が含まれる篆書の字体を整った形にし、字形分析もおこなった。当時としてはきわめてすぐれた内容であり、のちに字書の聖典といわれるようになった。
このため「説文解字」の字体をメインとして編集する方針は、中国の古漢語そのものを学習するための漢字辞典として適切であると思われる。しかし、甲骨文字や金文に関する知識が蓄積され、説文解字の誤解も見つかっている。例えば、「武は止(とまる)+戈(ほこ)で、戈を止める意とするが、実際は戈(ほこ)を持って止(あし)ですすむ意」などの誤解を注記する必要もあるのではないか。
なお、私の「漢字海」の利用法の一つは「説文解字」の読解に利用することである。ブログで「説文」に言及する場合、原文はネットの「漢典」で検索するとすぐ利用できるが、解釈がむずかしい箇所もあり、参考文献に当たる必要がある。「漢字海」は「説文」の原文とその訳文を載せているので利用価値がある。(しかし、「説文解字注」の訳文はない。)
<巻末付録>にある私が役立つと思うもの。
「漢字について」
「漢字音について・声母表・韻母表」
「漢文読解の基礎」
「訓読のための日本語文法」
「訓読語とその由来」など
『全訳 漢辞海』 「第四版」 2017年1月10日発行 三省堂
監修:戸川芳郎 編集:佐藤進 濱口富士雄