(毎日新聞 2010年4月25日 東京朝刊)
◇『人類対インフルエンザ』=トム・クイン著
(朝日新書・819円)
◇『感染症の中国史』=飯島渉著
(中公新書・798円)
◇『戦争とハンセン病』=藤野豊著
(吉川弘文館・1785円)
◇交錯する疫病と戦争、差別の歴史
昨年来の新型インフルエンザ騒ぎも、各種の保健機関の不安な予測とは違って、大量の犠牲者をださずにすんだようである。いや、すんだと言うのは軽率で、いったん休止状態に入っただけなのだと考えるべきかもしれないが。われわれは何らかの伝染病にぶつかると、それこそ今日と明日の治療と予防のことに神経を集中してしまいやすいし、それは当然のことであるけれども、少し後を振り向いてみると、別の意味で唖然(あぜん)としてしまうことになる。
「歴史を通じて、軍隊につきものの最大の問題の一つが、疫病である……クリミア戦争、アメリカ南北戦争、ボーア戦争、そして第1次世界大戦でも、戦場で受けた傷より病気で死ぬ兵士の方が多かったのだ。ボーア戦争では、戦死者1人に対し、10人の兵士が病死したと言われている」
一九世紀の末の南アフリカで起きたボーア戦争と言えば、例のシャーロック・ホームズ物語の作者コナン・ドイルも現地の病院で働くことを志願した戦争であった(彼はもともと医者である)。ボーア戦争からの帰還兵のロンドン行進を眼(め)にしたのは、偶然にもと言うべきか、英国留学中の夏目漱石であった。
別の驚くべき事実もある。
「1492年、コロンブスがアメリカ大陸を発見した。するとそれから30年ほどの間に、中央アメリカのアンティル諸島の先住民がほぼ全滅してしまった。一般的には天然痘のせいだとされているが……スペイン人がインフルエンザを持ち込んだ可能性が高い」
第一次世界大戦の末期に、全世界で五〇〇〇万人を超える死者を出したのではないかとされるインフルエンザ(通称スペイン風邪)のことを思い出すと、偶然とは言いながら、同じ国名が絡んでくるだけに、何か奇妙な気がしてくる。去年もテレビなどで、インフルエンザの猛威を証明しようとして、このスペイン風邪という表現が連呼されていた。下手をすると、それは、この流行病がスペインの何処(どこ)かから始まったという誤解を招きかねないだろう。トム・クインの指摘によれば、「ヨーロッパに新型インフルエンザを持ち込んだのは、ヨーロッパ戦線に送り込まれた何万というアメリカ兵だった」。いや、ヨーロッパの戦場に出る以前に、アメリカ国内の駐屯地やフランスの兵員輸送港でも多数の患者と死者が出た。「グラント駐屯地では、たった1日の死亡者数が500人以上に達したこともあった」
トム・クインの著書は古代から現代までのこの感染症の歴史をたどりながら、今日における対処法を考えようとしたきわめて重要な一冊、必読の一冊である。
西洋史、東洋史のいずれの分野にせよ、国境や文化を越えて短期間に拡大してしまう疫病の研究は、日本の歴史学者が最も苦手とする分野のはずであるが、それを見事にやってのけたのが、飯島渉の『感染症の中国史--公衆衛生と東アジア』。帯には「苦悩する『東亜病夫』」「帝国日本と公衆衛生」という言葉がきざまれていて、端的にポイントを伝えている。
この本の中心的な話題は一八九四年に香港で大流行したペスト--その感染は「東南アジアからインド、アフリカへと西進し、また、ハワイから北米、太平洋諸島、南米へ」と広がってゆくことになる。現在では、「一九世紀半ば以後の商品流通の活性化、とくに中国産アヘン交易の活性化を背景として、雲南起源のペストが広東省に伝播(でんぱ)し、また、反乱鎮圧のための軍隊の移動もきっかけとなって、ペストが広東省全域に拡大した」、そして世界の各地に広がっていったと考えられているという。
そうしたグローバルなペスト拡大を念頭におきながら、飯島が注目するのは、中国国内における公衆衛生確立のための努力である。それに絡んだ医学者たちの名前が挙げられ、その具体的な努力のありさまも説明される。しかもそこに伍連徳(ごれんとく)と北里柴三郎の名前と写真が並んでいるのだ。野口英世の名前まで顔を出す。著者は中国で公開されている各種の行政文書を使いながら、その公衆衛生のあり方が日本の制度を手本としていることを指摘する。そして、「衛生事業の制度化という近代化こそが植民地化だった」と考える。
この本ではコレラ、マラリア、日本住血吸虫病の歴史も語られるが、藤野豊『戦争とハンセン病』では、文字資料と現存する患者へのインタビューを含めて、病いと差別迫害と戦争の交錯する生々しい歴史が語られる。その舞台は日本国内、中国、満州、南洋群島。ここにあるのは悲惨な病いのグローバル化を追いつめる眼である。(『人類対インフルエンザ』は山田美明・荒川邦子訳)
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20100425ddm015070018000c.html
◇『人類対インフルエンザ』=トム・クイン著
(朝日新書・819円)
◇『感染症の中国史』=飯島渉著
(中公新書・798円)
◇『戦争とハンセン病』=藤野豊著
(吉川弘文館・1785円)
◇交錯する疫病と戦争、差別の歴史
昨年来の新型インフルエンザ騒ぎも、各種の保健機関の不安な予測とは違って、大量の犠牲者をださずにすんだようである。いや、すんだと言うのは軽率で、いったん休止状態に入っただけなのだと考えるべきかもしれないが。われわれは何らかの伝染病にぶつかると、それこそ今日と明日の治療と予防のことに神経を集中してしまいやすいし、それは当然のことであるけれども、少し後を振り向いてみると、別の意味で唖然(あぜん)としてしまうことになる。
「歴史を通じて、軍隊につきものの最大の問題の一つが、疫病である……クリミア戦争、アメリカ南北戦争、ボーア戦争、そして第1次世界大戦でも、戦場で受けた傷より病気で死ぬ兵士の方が多かったのだ。ボーア戦争では、戦死者1人に対し、10人の兵士が病死したと言われている」
一九世紀の末の南アフリカで起きたボーア戦争と言えば、例のシャーロック・ホームズ物語の作者コナン・ドイルも現地の病院で働くことを志願した戦争であった(彼はもともと医者である)。ボーア戦争からの帰還兵のロンドン行進を眼(め)にしたのは、偶然にもと言うべきか、英国留学中の夏目漱石であった。
別の驚くべき事実もある。
「1492年、コロンブスがアメリカ大陸を発見した。するとそれから30年ほどの間に、中央アメリカのアンティル諸島の先住民がほぼ全滅してしまった。一般的には天然痘のせいだとされているが……スペイン人がインフルエンザを持ち込んだ可能性が高い」
第一次世界大戦の末期に、全世界で五〇〇〇万人を超える死者を出したのではないかとされるインフルエンザ(通称スペイン風邪)のことを思い出すと、偶然とは言いながら、同じ国名が絡んでくるだけに、何か奇妙な気がしてくる。去年もテレビなどで、インフルエンザの猛威を証明しようとして、このスペイン風邪という表現が連呼されていた。下手をすると、それは、この流行病がスペインの何処(どこ)かから始まったという誤解を招きかねないだろう。トム・クインの指摘によれば、「ヨーロッパに新型インフルエンザを持ち込んだのは、ヨーロッパ戦線に送り込まれた何万というアメリカ兵だった」。いや、ヨーロッパの戦場に出る以前に、アメリカ国内の駐屯地やフランスの兵員輸送港でも多数の患者と死者が出た。「グラント駐屯地では、たった1日の死亡者数が500人以上に達したこともあった」
トム・クインの著書は古代から現代までのこの感染症の歴史をたどりながら、今日における対処法を考えようとしたきわめて重要な一冊、必読の一冊である。
西洋史、東洋史のいずれの分野にせよ、国境や文化を越えて短期間に拡大してしまう疫病の研究は、日本の歴史学者が最も苦手とする分野のはずであるが、それを見事にやってのけたのが、飯島渉の『感染症の中国史--公衆衛生と東アジア』。帯には「苦悩する『東亜病夫』」「帝国日本と公衆衛生」という言葉がきざまれていて、端的にポイントを伝えている。
この本の中心的な話題は一八九四年に香港で大流行したペスト--その感染は「東南アジアからインド、アフリカへと西進し、また、ハワイから北米、太平洋諸島、南米へ」と広がってゆくことになる。現在では、「一九世紀半ば以後の商品流通の活性化、とくに中国産アヘン交易の活性化を背景として、雲南起源のペストが広東省に伝播(でんぱ)し、また、反乱鎮圧のための軍隊の移動もきっかけとなって、ペストが広東省全域に拡大した」、そして世界の各地に広がっていったと考えられているという。
そうしたグローバルなペスト拡大を念頭におきながら、飯島が注目するのは、中国国内における公衆衛生確立のための努力である。それに絡んだ医学者たちの名前が挙げられ、その具体的な努力のありさまも説明される。しかもそこに伍連徳(ごれんとく)と北里柴三郎の名前と写真が並んでいるのだ。野口英世の名前まで顔を出す。著者は中国で公開されている各種の行政文書を使いながら、その公衆衛生のあり方が日本の制度を手本としていることを指摘する。そして、「衛生事業の制度化という近代化こそが植民地化だった」と考える。
この本ではコレラ、マラリア、日本住血吸虫病の歴史も語られるが、藤野豊『戦争とハンセン病』では、文字資料と現存する患者へのインタビューを含めて、病いと差別迫害と戦争の交錯する生々しい歴史が語られる。その舞台は日本国内、中国、満州、南洋群島。ここにあるのは悲惨な病いのグローバル化を追いつめる眼である。(『人類対インフルエンザ』は山田美明・荒川邦子訳)
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20100425ddm015070018000c.html