黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 今日は母親の命日

2017年07月31日 | その他


 今日は私の母親の命日、早いもので母親が旅立って26年が過ぎた。母親は大人しい性格で親父の3歩後ろを文句も言わず行く寡黙な人であったが仕事は人一倍する人であった。親父は酒もタバコも遣らぬ正義感の強い人で若い頃は可也尖って居て堅物で難しい人であったが母親からは一言の文句や愚痴を聞く事は無かった。


 当時の農家は若い夫婦が働き手で子供の親代わりは婆さんの役目で私が子供の頃の学校行事(運動会や学芸会等)は殆どが婆さんの役目だったので私の記憶の中で母親が出席した学校行事は小学校の高学年の参観日くらいで母親の出席した姿をハッキリ思い出せるのは小学校の卒業式くらいしかない。流石に其の時の母親は日頃見慣れない着物に羽織の正装姿だったので印象深く確りと記憶に残って居る。


 中学、高校時代は母親に甘える歳では無くなったので余り思い出は無いが私が高校を卒業して大阪の家電メーカーに就職する為に小松島の港まで見送りに来た時、母親は最初から最期まで涙、涙の連続で正に私との此の世での最期の別れ状態であった。在職中の3年間に渡って私に来る手紙には「5人の子供の中でお前だけが県外への就職、心配で成らないので帰っておいで」の連続であった。此のブログを最初から見ている人なら私が徳島に帰った理由は解かって居ると思うが?いざ御言葉に甘えて退職して実家に帰ったら私が思って居た程は大事には扱われ無かった。


 私は健康体であった事と意外と常識人であったので母親に心配を掛ける事は全く無かったが唯一心配を掛けたとすれば私の結婚が遅かった事、他の兄弟は四人とも24歳までには結婚し直ぐに子供が出来て居たが私は29歳まで結婚する事無くスキーに、とち狂ったり一時は東京の書家の内弟子に成り其の世界で身を立てる等と戯言を言って結婚の気配が全く無かったので(何処が常識人じゃ!とチャチを入れられそうだが)母親は別の意味で心配だったらしく?ある日突然に母親が真剣な顔付きで「お前 本当に大丈夫なのか?」と聞かれたので「何が?」と聞き返したら「そんな事母親に言わせるの?」と言われ(賢明な皆さんだと既にお解かり戴いて居ると思うが?)ハハ~ン其の事かと気付き母親に其の様な事で心配を掛けて居たのか?此れは申し訳ないので結婚するしか無いと覚悟を決めた。


 5人兄弟の末っ子で且つ結婚が遅く親に心配は掛けたが両親のたっての希望の分家を作り二人の孫を見せる事も出来たが残念な事に母親は不慮の交通事故で74歳で天国へと旅立った。元々健康な人だったので存命なら100歳を迎える事は可能だったかも知れない。良く世間では去る者は日々に疎しと言われるが旅立ってから26年も経つと日常の中で母親の事を思い出したり夢の中に出て来たりする事は滅多に無いが命日だけは忘れる事は無い。今日も実家に行って線香を上げながら我家にも漸く3代目が誕生した報告をして来た。生前は父親の方が遥かにインパクトが有ったが何故か?命日は思い出せない。矢張り子供は母親の事が一番なのか?そんな事を感じる一日であった。


A119A 

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