somethingは後ろに形容詞をとる。ということを知ったのは中学のころ。その思考の柔らかさに気づいたのはもっとあとのこと。そう、他の名詞のように前から規定されないのだ。「何か」というさりげないハプニング性と、実体が確定できない、しかし、存在する確かさを見せている実在感。在るが先行しながら、後方から形容される、somethingの段階ではまだ不在の形容詞に向かって開かれた自在さ。somethingのあとに何をつけようかと思うことも楽しいのかもしれない。
詩の雑誌の数は多い。詩の雑誌が商業誌として成り立つのかどうかは別にして、全国区の詩誌いくつかを中心にして、あまたの同人誌含めるとかなりの数だと思う。詩集に凝るように、詩の雑誌も意匠を凝らしたいという思いは強いのではないかと思う。それぞれの詩誌にそれぞれの意図があり、それぞれのイメージが存在しているはずだ。それは外観だけにはとどまらず、編集の細部にまで宿るのではないだろうか。オーソドックスを装うことで詩を際立たせようという考えもあるだろうし、けれん溢れる様相を見せてオリジナリティをわかりやすく主張したいという向きもあるだろう。雑誌の大きさ、文字の組み方、顔は様々、性格も様々、その愉しみ、これまた様々。ただし、企みのない創作は存在しないのだ。「たくらみ」という言葉からどんなイメージを空想、想像し、それを実体化するかは自由であったとしても。
で、素敵な詩誌がある。作っている人たちが「素敵な」という言い方にどんな反応をされるかはわからないけれど、この「素敵な」感じが詩の雑誌としての存在感を示していて、うらやましくさせてくれたという点で、紹介したい本なのだ。
表紙はカラーで毎号写真がいい。大きさはB5版。中にもふんだんに写真があり、写真は毎号違う写真家の写真である。付録ページがついている。本体と付録部分の一体化をはかる写真の連続もしゃれている。7号のこいのぼりは結構好きだ。詩を寄せている人は毎号同じ数人の人と毎回変わる人たちで20名から25名というところ。
この詩誌は同人誌ではなく、ひとりの詩人が4ページを自分の領域にしていて、おおよそ3ページに詩、1ページに散文を載せている。それぞれの詩人の小部屋を除いたような気分になる。もちろん、その小部屋にある詩は、詩によっては壮大な外界に開かれていたりするのだ。
7号の冒頭は小池昌代の部屋(小宇宙)である。「飛行鍋」という詩。いきなり詩を空に飛ばす。
風の吹く なだらかな丘に 立ち
紙飛行機を飛ばします
詩を書いた紙はこうしてすべて。
読まれて困るということはありませんが
読むひとは そもそもおりません
子供のために折ってやって
今は自分が夢中になりました
風は必要です 強風より微風が
天気は 晴れより曇り空が好みです
尖った先 突入する
眠る空へ 乳首立ち
さいきん鍋を焦がしました
少し引用が長くなったが、何だかここまで書かないと小池昌代がでないような気がしたのだ。丘と空と風。さりげなく広い世界から始まる。紙飛行機を飛ばす。宿る解放感。詩を書いた紙で作った紙飛行機。その解放感に僅かな自虐のきざしが現れる。そして句点。このあと38行目まで句点はない。展開上つきそうなところでもつけず、小池昌代の自在な往き来の世界が展開される。「読むひとは そもそもおりません」で、きざした自虐は閉塞を匂わせる。必要な風、でも微風。晴れよりも曇り。ここで詩人は語りたいことの総量を密封している。今まさに語り出したいという何ものかが貯まっている気配がある。そして、展開する。「尖った先 突入する」これは「紙飛行機」か。空に突き刺さる紙飛行機。しかも、それって詩の紙でできたヤツ。どこに突入するのか、空に。しかも「眠る空へ」で、受ける言葉が「乳首立ち」なのだ。参りました。ここに、すでに飛ぶ作者が予感されている、しかも乳首から張るように飛びそうなのだ。だが、まだだ。まだ離陸はしない。さらにもうひとつ、言葉の連想がある。「子供」「眠る」「乳首」とつながる、「紙飛行機」からの女性的、母的連鎖。それを合わせ持ちながら、離陸の前に、焦がした鍋の話になる。紙飛行機、離陸と母、女性が素材をつなぎとめていく、奇妙な物語世界が、続く。地上と空の二重性のようなものが、自己と他者との関係や、自虐と矜持や、閉塞と解放の間を往き来するようで、それがエピソード的なものと詩の夢想との織り込みにもなり、コラージュされるように繋がっていく。そして、最終行に向かうのだ。
風が吹いています こんな日には
重いフィスラーの鍋も空を飛びます
群れ飛ぶ紙飛行機にまざりながら
戦争は終わりました(ほんとですか?)
この最終行でボクはもう一度、この詩の軌跡に立ち戻らされるのだ。「戦争」ということばで指示されるあらゆる状況を鑑みるように。
編集発行人 鈴木ユリイカ
編集 田島安江 棚沢永子
952円+税
詩の雑誌の数は多い。詩の雑誌が商業誌として成り立つのかどうかは別にして、全国区の詩誌いくつかを中心にして、あまたの同人誌含めるとかなりの数だと思う。詩集に凝るように、詩の雑誌も意匠を凝らしたいという思いは強いのではないかと思う。それぞれの詩誌にそれぞれの意図があり、それぞれのイメージが存在しているはずだ。それは外観だけにはとどまらず、編集の細部にまで宿るのではないだろうか。オーソドックスを装うことで詩を際立たせようという考えもあるだろうし、けれん溢れる様相を見せてオリジナリティをわかりやすく主張したいという向きもあるだろう。雑誌の大きさ、文字の組み方、顔は様々、性格も様々、その愉しみ、これまた様々。ただし、企みのない創作は存在しないのだ。「たくらみ」という言葉からどんなイメージを空想、想像し、それを実体化するかは自由であったとしても。
で、素敵な詩誌がある。作っている人たちが「素敵な」という言い方にどんな反応をされるかはわからないけれど、この「素敵な」感じが詩の雑誌としての存在感を示していて、うらやましくさせてくれたという点で、紹介したい本なのだ。
表紙はカラーで毎号写真がいい。大きさはB5版。中にもふんだんに写真があり、写真は毎号違う写真家の写真である。付録ページがついている。本体と付録部分の一体化をはかる写真の連続もしゃれている。7号のこいのぼりは結構好きだ。詩を寄せている人は毎号同じ数人の人と毎回変わる人たちで20名から25名というところ。
この詩誌は同人誌ではなく、ひとりの詩人が4ページを自分の領域にしていて、おおよそ3ページに詩、1ページに散文を載せている。それぞれの詩人の小部屋を除いたような気分になる。もちろん、その小部屋にある詩は、詩によっては壮大な外界に開かれていたりするのだ。
7号の冒頭は小池昌代の部屋(小宇宙)である。「飛行鍋」という詩。いきなり詩を空に飛ばす。
風の吹く なだらかな丘に 立ち
紙飛行機を飛ばします
詩を書いた紙はこうしてすべて。
読まれて困るということはありませんが
読むひとは そもそもおりません
子供のために折ってやって
今は自分が夢中になりました
風は必要です 強風より微風が
天気は 晴れより曇り空が好みです
尖った先 突入する
眠る空へ 乳首立ち
さいきん鍋を焦がしました
少し引用が長くなったが、何だかここまで書かないと小池昌代がでないような気がしたのだ。丘と空と風。さりげなく広い世界から始まる。紙飛行機を飛ばす。宿る解放感。詩を書いた紙で作った紙飛行機。その解放感に僅かな自虐のきざしが現れる。そして句点。このあと38行目まで句点はない。展開上つきそうなところでもつけず、小池昌代の自在な往き来の世界が展開される。「読むひとは そもそもおりません」で、きざした自虐は閉塞を匂わせる。必要な風、でも微風。晴れよりも曇り。ここで詩人は語りたいことの総量を密封している。今まさに語り出したいという何ものかが貯まっている気配がある。そして、展開する。「尖った先 突入する」これは「紙飛行機」か。空に突き刺さる紙飛行機。しかも、それって詩の紙でできたヤツ。どこに突入するのか、空に。しかも「眠る空へ」で、受ける言葉が「乳首立ち」なのだ。参りました。ここに、すでに飛ぶ作者が予感されている、しかも乳首から張るように飛びそうなのだ。だが、まだだ。まだ離陸はしない。さらにもうひとつ、言葉の連想がある。「子供」「眠る」「乳首」とつながる、「紙飛行機」からの女性的、母的連鎖。それを合わせ持ちながら、離陸の前に、焦がした鍋の話になる。紙飛行機、離陸と母、女性が素材をつなぎとめていく、奇妙な物語世界が、続く。地上と空の二重性のようなものが、自己と他者との関係や、自虐と矜持や、閉塞と解放の間を往き来するようで、それがエピソード的なものと詩の夢想との織り込みにもなり、コラージュされるように繋がっていく。そして、最終行に向かうのだ。
風が吹いています こんな日には
重いフィスラーの鍋も空を飛びます
群れ飛ぶ紙飛行機にまざりながら
戦争は終わりました(ほんとですか?)
この最終行でボクはもう一度、この詩の軌跡に立ち戻らされるのだ。「戦争」ということばで指示されるあらゆる状況を鑑みるように。
編集発行人 鈴木ユリイカ
編集 田島安江 棚沢永子
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