鶴見俊輔80歳から7年にわたる『図書』連載をまとめた一冊。
ほぼ2ページくらいの短い文章が綴られている。
翻訳家でエッセイスト、評論、書評、詩の書き手でもある斎藤真理子が、その著書『本の栞にぶら下がる』で、
「美味しいふりかけ」と書いていた一冊。斎藤真理子はこう書く。
例えば、食欲がガタンと落ちて、お粥にして、お粥からご飯に戻ったのだが、ちゃんとしたおかずがまだ食べられない。
でも白飯だけではというのも味気なくて、何か欲しい……ふりかけぐらいなら……美味しいふりかけがあれば……という感じのときだったので、
『思い出袋』は役立った。
鶴見俊輔のふりかけは美味しい。何しろもともとの材料がいいので、あそこからこぼれてきたものを集めても美味しいに決まっている。
そう、美味しすぎる。
鶴見俊輔が出会った人や本、そして出来事が自在に重なってくる。一切の体験と思考が絡み合いながら、通念、常識を問い直していく。
2ページほどなのに、えっ、この文章どこにいくのと思わせながら、当初の場所に着地する。
そこにはきちんと思考の後、レアな問いが置かれている。
鶴見俊輔の合理性は、多くの不合理の中をくぐり抜けながら、良心にたどりつく。
しかも、良識はすでに疑いのふるいにかけられているから、そこにあらわれる良心は、時の勢威にあたふたしない。
そばにおいて、折に触れ、ふりかけたくなる一冊だ。
それにしても、射程の広さがすごい。
ジョン万次郎、金子ふみ子と入ってきて、大山巌、乱歩、クリスティ、正津勉、柳宗悦、丸山真男、加藤周一、
映画、相撲などなど、過去も現在も、あちらもこちらも 縦横無尽だ
斎藤真理子も引いていたが、そんな中で、こんな文が出てきたりする。
イラクの戦争で人質になった日本人へのバッシングのような論調について記している件だ。
なぜ、日本では「国家社会のため」と、一息に言う言い回しが普通になったのか。社会のためと国家のためとは同じであると、どうして言えるのか。
国家をつくるのが社会であり、さらに国家の中にいくつもの小社会があり、それら小社会が国家を支え、国家を批判し、国家を進めてゆくと考えないのか。
こういった剛直な思考が柔軟な躍動の中から現れてくる。
国体は国家じゃない。するりと合点をいかせながら、きちんと読者を立ち止まらせてくれる。
こんな一節もある。
自分で定義をするとき、その定義のとおりに言葉を使ってみて、不都合が生じたら直す。
自分の定義でとらえることができないとき。経験が定義のふちをあふれそうになる。あふれてもいいではないか。
そのときの手ごたえ、そのはずみを得て、考えがのびてゆく。
鶴見俊輔に出会うことは、この定義を問う方法を学ぶことかも知れない。
詩が、現代詩が、行う定義づけも、実は、こんな感じなのだ。
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