百花園から帰るとき「鐘ヶ淵」というところを通ります。
隅田川が大きく湾曲し直角どころではない元へ戻るのでは?
と思うくらい大きく曲がっているけどここが鐘ヶ淵。
大工さんの曲尺(かねじゃく)みたいに曲がっていると曲ヶ淵、
この辺りに梵鐘が沈んでいるとの説がいっぱいあって鐘ヶ淵、両方の説が。
左上方から流れてきた隅田川はここで大きく湾曲し左下方へ流れていきます、
右からは綾瀬川がここで合流、水の色が違いますね境目が出来ている。
地上からでは分かりにくいので上から。
Topの写真はこの地図でリバーサイド病院の"病院"と書かれた辺りから左方向を撮ったものです。
どうしてこんなに曲がってしまったんでしょうね、隅田川。
それはさておいて、数ある沈鐘伝説の一つ「長昌寺」に行ってみました。
長昌寺、1297年妙昌寺として開山のちに長昌寺と。
鎌倉後期、鐘を対岸の墨田村から長昌寺まで、隅田川をイカダで運ぶ際
隅田川の真ん中で、にわかに空がかき曇り真っ暗になって大嵐となった。
梵鐘を固定した綱が次々と切れ、梵鐘は川に沈んでしまった。
その鐘を何度も引き上げようと試みたが、そのたびに川が荒れ狂う。
それでも勇敢な若者が川底に潜って梵鐘に綱をかけようとしたが、
梵鐘の吊口に彫られた龍が動き出し、噛み付くやら引っかくやら。
ほうほうの体で若者たちは水面に逃げ返った。
隅田川の水神がその梵鐘を気に入り水神に引き上げを阻まれたのである、
その後何回も引き上げを試みたがとうとう引き上げは叶わなかった。
今でも梵鐘は水神に愛されながらこの淵で静かに眠っているという。
鐘楼には沈んでしまった鐘を再鋳したという銅鐘が、
22世住持である日津と橋場の信徒たちによって作られたと伝わる。
そしてこの銅鐘は台東区重要美術品に指定されている。
ここには銭洗弁天が祀られている。
石の上から龍が水を吐いていて右にはお金を洗えるようザルが置いてある、
これでお金を洗うと増えると言われているが、、、。
ちょっと奥まった銭洗弁天から境内へ戻ったら掃除している女性に会った、
「お邪魔しています」と声をかけたのが始まりでこのお寺についての話が弾んで、、、。
そして私のカメラに目がいき「私もちょっとしたカメラを持っていまして前はよく写真を撮りました、
重くて大きいのでこのごろは持つことが少なくなりましたが」などと言いながら
「そうそ、今朝見たらハスの花が咲いていました、ご案内しますね」。
ハスのところへついて行ったら「あら、もう萎んでいる。朝はあんなに大きく咲いていたのに・・・」、
ちょっと待っててくださいと方丈へ戻りスマホを手に帰ってきて「ほら、こんなにきれいに咲いていたんですよ」。
画面を見たらサムネイルがいっぱい、一輪のハスを何枚撮ったんだろう。
写真についての話がすっかり弾んでしまい引くに引けなくなってしまった。
行きがかり上ハスを撮り始めたらこの人もまた撮り始める、
一輪のハスを囲んでの撮影会が始まってしまった。
ご住職の奥さんだったんだろうか聞き漏らしてしまったけど、
縁は異なもの味なもの、犬も歩けば何とやら
仏さまのお引き合わせだったのかしらん。
そのあと百花園へ行き、帰りにいつものように墨堤通りへ。
ここに"鐘ヶ淵"についてのモニュメント、
地形図や江戸時代に描かれた絵図、などがあしらってあります。
そしてこの辺りにかつては「鐘ヶ淵紡績」という大きな紡績会社がありました、
明治20年創業、場所が鐘ヶ淵だったのでその名に。
紡績産業、戦前は現代の自動車のように国の基幹産業だったが、
時代の流れと経営のミスなどが重なって2007年解散となってしまった。
さきほどのモニュメントから数分のところにこんな光景を見ることが出来る。
家貧しゅうして孝子出づ・・・鐘ヶ淵紡績から「カネボウ化粧品」という孝行娘が生まれたが
親の不行跡には勝てず2004年花王に身売りしてしまう、
当時カネボウ化粧品のシェアは資生堂、花王、に次いで国内3位を誇っていた。
当時の鐘ヶ淵紡績を思い出すのはこの看板くらいかな。
ここに鐘ヶ淵紡績ありき、今ここは花王ロジスティックセンターで
カネボウロジスティックセンターも同居している。
かつての広大な敷地は白髭団地とか汐入公園とかに姿を変えて都民と共にあるが
鐘ヶ淵紡績を知る人はだんだん少なくなっているだろう。
data: EOS70D/EF17-40mm 1:4 。 撮影 8月6日 墨田区・鐘ヶ淵辺り
隅田川が大きく湾曲し直角どころではない元へ戻るのでは?
と思うくらい大きく曲がっているけどここが鐘ヶ淵。
大工さんの曲尺(かねじゃく)みたいに曲がっていると曲ヶ淵、
この辺りに梵鐘が沈んでいるとの説がいっぱいあって鐘ヶ淵、両方の説が。
左上方から流れてきた隅田川はここで大きく湾曲し左下方へ流れていきます、
右からは綾瀬川がここで合流、水の色が違いますね境目が出来ている。
地上からでは分かりにくいので上から。
Topの写真はこの地図でリバーサイド病院の"病院"と書かれた辺りから左方向を撮ったものです。
どうしてこんなに曲がってしまったんでしょうね、隅田川。
それはさておいて、数ある沈鐘伝説の一つ「長昌寺」に行ってみました。
長昌寺、1297年妙昌寺として開山のちに長昌寺と。
鎌倉後期、鐘を対岸の墨田村から長昌寺まで、隅田川をイカダで運ぶ際
隅田川の真ん中で、にわかに空がかき曇り真っ暗になって大嵐となった。
梵鐘を固定した綱が次々と切れ、梵鐘は川に沈んでしまった。
その鐘を何度も引き上げようと試みたが、そのたびに川が荒れ狂う。
それでも勇敢な若者が川底に潜って梵鐘に綱をかけようとしたが、
梵鐘の吊口に彫られた龍が動き出し、噛み付くやら引っかくやら。
ほうほうの体で若者たちは水面に逃げ返った。
隅田川の水神がその梵鐘を気に入り水神に引き上げを阻まれたのである、
その後何回も引き上げを試みたがとうとう引き上げは叶わなかった。
今でも梵鐘は水神に愛されながらこの淵で静かに眠っているという。
鐘楼には沈んでしまった鐘を再鋳したという銅鐘が、
22世住持である日津と橋場の信徒たちによって作られたと伝わる。
そしてこの銅鐘は台東区重要美術品に指定されている。
ここには銭洗弁天が祀られている。
石の上から龍が水を吐いていて右にはお金を洗えるようザルが置いてある、
これでお金を洗うと増えると言われているが、、、。
ちょっと奥まった銭洗弁天から境内へ戻ったら掃除している女性に会った、
「お邪魔しています」と声をかけたのが始まりでこのお寺についての話が弾んで、、、。
そして私のカメラに目がいき「私もちょっとしたカメラを持っていまして前はよく写真を撮りました、
重くて大きいのでこのごろは持つことが少なくなりましたが」などと言いながら
「そうそ、今朝見たらハスの花が咲いていました、ご案内しますね」。
ハスのところへついて行ったら「あら、もう萎んでいる。朝はあんなに大きく咲いていたのに・・・」、
ちょっと待っててくださいと方丈へ戻りスマホを手に帰ってきて「ほら、こんなにきれいに咲いていたんですよ」。
画面を見たらサムネイルがいっぱい、一輪のハスを何枚撮ったんだろう。
写真についての話がすっかり弾んでしまい引くに引けなくなってしまった。
行きがかり上ハスを撮り始めたらこの人もまた撮り始める、
一輪のハスを囲んでの撮影会が始まってしまった。
ご住職の奥さんだったんだろうか聞き漏らしてしまったけど、
縁は異なもの味なもの、犬も歩けば何とやら
仏さまのお引き合わせだったのかしらん。
そのあと百花園へ行き、帰りにいつものように墨堤通りへ。
ここに"鐘ヶ淵"についてのモニュメント、
地形図や江戸時代に描かれた絵図、などがあしらってあります。
そしてこの辺りにかつては「鐘ヶ淵紡績」という大きな紡績会社がありました、
明治20年創業、場所が鐘ヶ淵だったのでその名に。
紡績産業、戦前は現代の自動車のように国の基幹産業だったが、
時代の流れと経営のミスなどが重なって2007年解散となってしまった。
さきほどのモニュメントから数分のところにこんな光景を見ることが出来る。
家貧しゅうして孝子出づ・・・鐘ヶ淵紡績から「カネボウ化粧品」という孝行娘が生まれたが
親の不行跡には勝てず2004年花王に身売りしてしまう、
当時カネボウ化粧品のシェアは資生堂、花王、に次いで国内3位を誇っていた。
当時の鐘ヶ淵紡績を思い出すのはこの看板くらいかな。
ここに鐘ヶ淵紡績ありき、今ここは花王ロジスティックセンターで
カネボウロジスティックセンターも同居している。
かつての広大な敷地は白髭団地とか汐入公園とかに姿を変えて都民と共にあるが
鐘ヶ淵紡績を知る人はだんだん少なくなっているだろう。
data: EOS70D/EF17-40mm 1:4 。 撮影 8月6日 墨田区・鐘ヶ淵辺り