前回、嵐山を訪ねてから17日、すっかり初冬の趣となった嵐山を再訪しました。
渡月橋を渡る人の数も心なしか少なく感じます。
後ろの山の木々も葉っぱを落として霞のようです。
今回は、保津川の右岸を歩いて大悲閣へと向かいます。保津川右岸の道は行く人も少なく静かなひとときを味わうことができます。
この保津川は、今でこそ保津川下りで有名なところですが、昔は岩が多くて船で下れるようなところではなかったそうです。それを、角倉了以という人物が、「あまたの岩をくだいてこの川にはじめて船を通し、丹波の木材を水路山城に運ぶようにした」(司馬遼太郎著『街道をゆく26嵯峨散歩』より)ということだそうです。
角倉了以ですが、高瀬川を掘ったことでも有名ですが、すべて私財を投げ打っての工事だったそうです。彼の生きた時代は、秀吉が天下統一を成し遂げた頃です。
渡月橋から20分ほど歩いたでしょうか。保津川も狭まってきたようです。ゆっくりと川下りの船が進みます。
我が司馬遼太郎さんは「やがて千鳥ヶ淵で水が淀むあたりにくると、対岸は山ではばまれ、山峡(さんかい)になった。路傍より下の崖に、料理旅館があり、嵐峡館とあった。」と書かれています。たしかに今も旅館はありますが、「星のや」という高級旅館になっています。
いよいよ、ここから大悲閣への登りがはじまります。その傍らに我が芭蕉さんの句碑が建っています。
「花の山 二町のぼれば 大悲閣」
芭蕉さんは48歳のころ嵯峨の落柿舎に庵住していたので、嵐山にもよく行ったことでしょう。
あと2町です。杖を借りて山道を登ることにしましょう。
<つづきます>
渡月橋を渡る人の数も心なしか少なく感じます。
後ろの山の木々も葉っぱを落として霞のようです。
今回は、保津川の右岸を歩いて大悲閣へと向かいます。保津川右岸の道は行く人も少なく静かなひとときを味わうことができます。
この保津川は、今でこそ保津川下りで有名なところですが、昔は岩が多くて船で下れるようなところではなかったそうです。それを、角倉了以という人物が、「あまたの岩をくだいてこの川にはじめて船を通し、丹波の木材を水路山城に運ぶようにした」(司馬遼太郎著『街道をゆく26嵯峨散歩』より)ということだそうです。
角倉了以ですが、高瀬川を掘ったことでも有名ですが、すべて私財を投げ打っての工事だったそうです。彼の生きた時代は、秀吉が天下統一を成し遂げた頃です。
渡月橋から20分ほど歩いたでしょうか。保津川も狭まってきたようです。ゆっくりと川下りの船が進みます。
我が司馬遼太郎さんは「やがて千鳥ヶ淵で水が淀むあたりにくると、対岸は山ではばまれ、山峡(さんかい)になった。路傍より下の崖に、料理旅館があり、嵐峡館とあった。」と書かれています。たしかに今も旅館はありますが、「星のや」という高級旅館になっています。
いよいよ、ここから大悲閣への登りがはじまります。その傍らに我が芭蕉さんの句碑が建っています。
「花の山 二町のぼれば 大悲閣」
芭蕉さんは48歳のころ嵯峨の落柿舎に庵住していたので、嵐山にもよく行ったことでしょう。
あと2町です。杖を借りて山道を登ることにしましょう。
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