はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

昔の道

2006-03-06 18:27:10 | かごんま便り
 苔むした急坂の石畳に赤い椿の花がこぼれ落ちていた。雨後のせいか、敷き詰められた石畳の所々の隙間から水が流れている。すべらないように足場の良い場所を選びながら歩いた。幾多の人も同じ気持ちで歩みを進めたのだろう。踏みしめた足場の良い石畳は摩耗して周囲よりもへこんでいるようだった。
 加治木町木田にある竜門司坂。司馬遼太郎さんの小説「翔ぶが如く」でも鮮烈な場面として印象に残っていた。1877(明治10)年、吹雪の中を熊本へ向かう薩軍がたどった坂である。
 まず、別府晋介の率いる大隊が北上し、続いて西郷隆盛も通ったという。実際に坂を上ってみると、雪は降っていなくても歩みは困難であることがわかる。それに薩軍は、もっと先の険しい道を進んで行ったのかと思うと、感慨深いものがわいてきた。
 この坂は1635(寛永12)年に完成し、1741(元文6)年に石畳敷きになった。1500㍍あったそうだが、現在は約500㍍が当時のままの姿で残っているという。
 福岡県筑穂町の山中にも、江戸時代の空間がそのまま残っている場所がある。長崎から江戸までの道程だった長崎街道で、難所の冷水峠近く。草むらの中の石畳を約20分進むと木立の視界が広がって首無し地蔵の祠や、石橋が架かった小川がある。旅人が一息入れた場所だった。
 その土地に赴任していた時には、たびたびこの場所を訪れた。石橋の側面中央には「文政六……」と刻まれている。石畳をメジャーで測ったら最大幅2・7㍍、長さは約3・7㍍あった。
 なぜ、この空間が江戸時代のままだと分かるのか。幕末の初代英国公使オールコックが著した日本滞在記録「大君の都」(山口光朔訳、岩波文庫)の中巻に掲載されているスケッチ「道ばたの祠」とそっくりだからだ。「文政六」は1823年。オールコックはその後に来日しているから、スケッチに描かれている石橋である。徳川吉宗に献上されたゾウも通ったという。
 道路が舗装され、便利になった車社会。昔の道は、今ではほとんど人影はない。苦労しながら、どんな思いで通ったのだろう。たまには、ほんのわずかでも昔の道を歩いて時間をさかのぼる行楽もいい。ただし、自販機はないから水筒は忘れずに。
   鹿児島支局長 竹本啓自 (毎日新聞鹿児島版 3月6日掲載)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿