昭和三十三、四年ごろだっただろうか、世の中随分落ち着いて、食料も不自由なくなっていた。家族そろって夕食をとっていたとき、かねて厳しい父が大粒の涙を流し「禎二兄が死んだ」と言って涙と共に飯をかき込んだ。
終戦前後、米は厳しい統制下におかれた。禎二おじは米の配給所を営んでいた。父はそこから闇米を得ていたようだった。私も運んだことがあった。これは米の横流しであり、露見すれば2人の破滅は必至だった。偶然出てきた二人の写真をみて、これこそ刎頚の交わりだったんだと思うことであった。
鹿児島市 野崎正昭 2015/12/18 毎日新聞鹿児島版掲載
終戦前後、米は厳しい統制下におかれた。禎二おじは米の配給所を営んでいた。父はそこから闇米を得ていたようだった。私も運んだことがあった。これは米の横流しであり、露見すれば2人の破滅は必至だった。偶然出てきた二人の写真をみて、これこそ刎頚の交わりだったんだと思うことであった。
鹿児島市 野崎正昭 2015/12/18 毎日新聞鹿児島版掲載