人は外界から空気を取り込み、血液の赤血球中のヘモグロビンで、酸素を全身の細胞にくまなく行き渡らせ、細胞内のミトコンドリアにより炭水化物を酸化しエネルギーを獲得して、最終産物として二酸化炭素と水を排出するから、生きている。前半が外呼吸で、後半が内呼吸である。
呼吸の字の並びは、炭酸ガスを放出する「呼」が先で、酸素を取り込む「吸」が後である。
「吸呼とは言わない。何故なのか考えて見なさい」とは禅僧が投掛けた問題である。
人間は常識的には、酸素を吸って、消費して、炭酸ガスを吐き出すと考えて信じて疑わない。禅僧は些細で、如何でもよい事に好奇心を持つものである。禅問答は難解である。凡人は金儲けの自己中心主義に忙しく、心の余裕がないから考えようとしない。有用価値論症候群の優秀な職業人が一番軽蔑する「坊主憎ければ、袈裟まで憎い」的な無駄な問題として葬り去る。
言葉遣い・立ち居振る舞いの立派な禅僧が、掃除の行き渡った静かな環境での、問題提起なのだから、座禅の合間に、真剣に考え始める事になる。
「吐き出すのが先なのか、吸うのが先なのか」「卵が先なのか、鶏が先なのか」「高給だから就職するのか、仕事をするから高給取りになるのか」
仕事について言えば、働くのが先で、後から給料が支払われるのが一般的であるから、労働の提供が先のようである。しかし労働の提供先が無ければ、道端で物乞いすることになれば、もらうのが先になる。
若者が高給に釣られて就職した会社の業務内容が詐欺商法で臭い飯を食ったりする。ボランティアのつもりの仕事が、世間で認められ大金持ちになったりする。
考えれば考えるほど、判らなくなる。出入・損得・善悪・美醜など2元的な考えは相対的に決まることで、時々刻々変化するのが、人間世界の価値判断である。
禅の呼吸法は、吐く息を大事にする。苦しくなると自然に吸うように人間は出来ている。そして息を止めると、酸素が体の細胞に行き渡るのがわかる。奉仕をする事を先にして、人が喜ぶのを見ていると、自然とお布施が集まると考えるのが、寺の流儀である。信じるのも、疑うのも自由で、自身で判断して主体性を持って、自己責任で納得すればよいことである。
屁理屈をこねまわさなくても、息は出来るように人間は出来ている。息が出来なくなった時は死んでいる。息をするから生きているのは真理だ。
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