昭和19年生まれの舟木一夫は橋幸夫、西郷輝彦とともに、御三家(ごさんけ)と呼ばれ、高校3年生で若くして有名になった歌手である。本家御三家は、徳川将軍家に次ぐ地位の尾張藩・紀州藩・水戸藩のことである。
昭和18年生まれの橋幸夫は、遠藤実、吉田正に師事し、潮来笠でビクターレコードからデビューした。最初のコロムビアの採用試験に合格していたら、舟木一夫という芸名になる予定であった。歌手の他に、俳優としても活躍、著書に認知症の実母の介護生活を綴った「お母さんは宇宙人」がある。奥方との熟年離婚の危機を脱した話は有名である。
昭和20年生まれの吉永小百合との「いつでも夢を」はヒット曲になった。東京都出身の女優で、そのファンは「サユリスト」と呼ばれる。吉田正の門下生として、数多くのレコードを出している。「日活の看板女優」として、昭和18年生まれの浜田光夫とコンビの純愛&青春映画路線は、1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした。『キューポラのある街』や『愛と死を見詰めて』等は話題となった。
昭和55年前後に巻き起こった漫才ブームの時期、ザ・ぼんちのぼんちおさむが橋幸夫のものまねを頻繁に披露。歌手としてはやや低迷していた橋にもスポットが当たった。
昭和21年生まれの美川 憲一は長野県諏訪市出身の歌手であるが、低迷の時があった。しかし昭和55年後半、ものまねブームのなか、ものまねタレントの第一人者である昭和35年生まれのコロッケによる美川のマネが大うけ。便乗する形で美川本人もオカマ口調をやるようになって人気が奇跡的に復活した。
昭和22年生まれの和泉雅子は東京都出身の女優、冒険家であるが、子役として劇団若草で活躍した後、金語楼劇団に入り喜劇を志す。ジェスチャーに出演する柳家金語楼に鞄持ちとしてついていったとき、ジェスチャーの共演者でもある日活のプロデューサー水の江滝子にスカウトされ、日活に入社し、舟木一夫と青春映画に多数出演した。
映画「高校三年生」に出演した倉石功は長野市の学校の同窓生であった。昭和19年4月1日生まれであるから、学年最後の誕生日であるが、体格は良かった。奥方の秀子さんはノーブルな美貌、気品漂う立ち振る舞い、三歩下がって歩く奥ゆかしさに、「これぞニッポンの妻」として人気がある。
舟木一夫の「風来坊(Wanderer・Vagabond)」の本を購入した。若くして大成功するとその名声にとらわれ、こだわり、かたよるために逆境になると立ち直るのに時間が掛かるようである。15年間遊んでいたようで、新境地を獲得できたのは、過去を捨て去り、「心のスッピン・自然体の心」となり、友人に助けられた時である。遊びが無駄になっていない。悪い状態は自分が作っているのであり、窮地を抜け出すには自分が変わることである。自分が変われば、周りが援けてくれる。
私は昭和19年生まれであるから、この団塊の世代の仲間である。私も同様に低迷の時代があり、今も継続して低迷している。その状態に安住して不満はない。私は重度の高所恐怖症なのである。
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