風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

目線は心の言葉 188号

2007年10月24日 08時35分23秒 | 随想
目は口ほどにものを言い。   The eye is the window of the soul.
目を見つめていると、心理状況がわかる。喜びの目・怒りの目・哀しい目・楽しい目。目は心の窓である。

対人関係では目の位置が、目線が重要である。高い位置の目は相手を見下している。低い目線は卑屈である。同じ高さなら対等で和やかな印象がある。

お寺を訪ねた経験がある。奈良仏教の寺院である東大寺の大仏や西ノ京にある薬師寺の薬師三尊(薬師如来から見て、日光菩薩を左脇侍、月光菩薩を右脇侍とする)の目線は高いところにある。見上げることになる。凡夫が仏の境地に到達するには、厳しい修行をしなければならない事を、端的に表現しているのである。

異論を唱え、法相宗の徳一和尚に論争を挑んだのが、天台宗の伝教大師最澄である。五性各別のうち成仏できるのは、極限られたわずかなの人であるとするのが徳一の主張で、最澄は誰でも成仏できるとした。

比叡山延暦寺根本中堂の最澄作の薬師瑠璃光如来は参拝客と目線が平行になる造りで、天台様式と言われ、最澄の思想を表現している。しかし仏と凡夫の間には深い奈落があり、表現は違うけれども修行の厳しさを教えている。

薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主で、この世における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成ったとされる。真言は「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」である。

斑鳩の里・法隆寺の釈迦三尊像は見下す位置であるが、釈迦が卑屈になっているわけではない。8cmほどで極めて小さいからである。

仏様が合掌しているのは、凡夫の中の隠れた仏様に対して礼拝しているのであり、凡夫は生まれながらに仏様になる素質を誰でも持っているのである。

車椅子の老人を慰問した美智子皇后が、膝を折り目線を合わせた行為に、多くの人が感動した。老人は雲の上の存在と認識していただろうが、皇后と目線が同じになった瞬間に、同じ人間である連帯感で親近感を持ったのだろう。昭和天皇の人間宣言を真に実践したのは美智子皇后であった。

最近の私は、視力が衰え、飛蚊性に悩まされ、目付き・目線が定まらないのであるが、心は歪んでない事を、皆様の心眼で見抜いて頂きたいと思っているのである。

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