風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

マッカーサー元帥は大僧正 120号

2007年07月08日 09時33分21秒 | 随想
ダグラス・マッカーサー将軍は大東亜戦争(1941年12月8日の大本営発表から1945年8月15日の玉音放送のポツダム宣言受諾)に連合国軍司令官として対日反攻作戦を指揮し、フィリピンで軍務に就いていた際、本国アメリカから「真珠湾が奇襲された」という連絡が入り、それからわずか10時間後、フィリピンもまた勢いに乗った日本軍に急襲され、マニラはあっさり陥落。マッカーサー大将等は間一髪で脱出に成功し、オーストラリアに撤退する。“I shall return”はその際の言葉である。私は必ず戻ってくる。

終戦後にはGHQ(日本進駐連合国軍総司令部)最高司令官を務めた。天皇初会見では、戦争の責任を他者に転嫁するに違いない、それが西洋人の思考の常識であったわけで、それに反し、「戦争の災禍の責任は全部自分にある、自分は占領軍の如何なる裁量も受けるつもりである」という昭和天皇の言葉に感銘を受けたことから、出迎えなかったが、会談が終わった時には車まで見送るといった事もした。

1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を越えて韓国に侵攻することで始まった朝鮮戦争で、マッカーサー将軍は国連軍の司令官であった。絶対成功するはずがないと言われた仁川(インチョン)上陸作戦を成功させ、北朝鮮軍を中国国境地帯まで追い詰め、満州の工業地帯に原子爆弾を投下して、中国と直接対決しようとするマッカーサーに対して、トルーマン政権はソ連をも巻き込んだ第三次世界大戦となることを危惧、外交による停戦に持ち込もうとしていた。1951年4月11日、マッカーサー元帥はトルーマン大統領によって解任され、退役する。文民統制が機能したのである。1週間後の4月18日、ワシントンに帰ってきたマッカーサーが、上下院両院合同会議の演説の最後の部分である。

私が陸軍士官学校の校庭で宣誓をしてから、世界は幾度となく転変を重ね、私の少年時代の夢と希望ははるかかなたに消え去っていきました。しかし、今なお、あの時代、よく兵舎で歌われていたあのバラードの一節がまざまざと思い起こされるのです。誇り高く歌い上げていたあの一節。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」
And like the old soldier of that ballad, I now close my military career and just fade away, an old soldier who tried to do his duty as God gave him the light to see that duty. Good-bye.
この歌の老兵のように、私は今、軍人としての職歴を終え、ただ消えていきます。神の光に導かれて自らの責務を知り、これを誠心誠意努めたひとりの老兵として。さようなら。

一人の兵士に戻り、去っていく事は、生まれた時は裸一貫で生まれ、初心に帰り裸一貫で再出発することを言っている。人生経験の栄光・屈辱を忘れ、無に帰することは、禅の空の実践である。天皇の言葉に啓発され、日本人の心を研究した結果、禅の高僧の境地に到達したのである。元帥が大僧正に成ってしまった。

戦後60数年経過した日本は、責任を他者に転嫁する弱肉強食の西洋人の思考の常識で、物質文明で世界の頂点に到達したが、伝統の他者を思いやる日本人の心は崩壊した。ダグラス・マッカーサー元帥が持ち去ってしまった。


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