恒例となった飯田市の援農ボランティア活動で、座光寺・麻績の里の果樹農家に滞在した。7月1日の夜から5日までの5日間である。昨年春に、やじ馬根性で始めたのであるが、性に合い、自己満足の生活体験で、人の迷惑省みず、積り積もって9回目となった。
名物の市田柿の、枝の複数の果実を1個にすることで、養分を集中させ大きく成長させる摘果作業である。季節は青春から朱夏に変わる梅雨の時期で、雨降りの日が続く。6月初旬に入梅した東海・甲信越地方の梅雨明けは7月中旬である。曇天・小雨降る環境の柿の摘果は、五月晴れの「降水無しで幸水梨」摘果作業の木漏れ日環境と同様に、風情がある。
市田柿の摘果作業は必要不可欠の農作業ではない。自然に放置した柿は小さく大量に鈴なりになる。秋の収穫に人手が掛かり、皮剥き・乾燥・加工作業に時間が掛かり苦労するが、今の時期は、農閑期となり温泉旅行など人生を謳歌できるのである。
今の時期、額に汗して摘果の労働に励むと、果実が大きく、個数が減り、冬の作業が低減される。しかし大型果実の加工作業は、高度の技術が必要で、経験豊富な熟練の職人の世界である。従って希少価値があり、高値で取引される。
蟻とキリギリスのイソップ寓話で指摘されているが、自己責任で選択する自由は、各農家の心の有様であり、精魂丹精の職人気質は古き良き日本の伝統である。
この時期は雑草の蔓延る季節でもある。平面は自走式乗用草刈機で主人が朝飯前に作業するが、木の周りや土手の斜面は、エンジン式の刈払い草刈機「ビーバー」の私の労働である。
単純作業も工夫しながら続けると、楽しくなる。労働は、命令されて僅かな賃金のために嫌々するのと、自分の天職と思い自主的にする遊びとでは、天国と地獄の差がある。労働が遊びになる「遊戯三昧の心境」は仏様の境地なのだろう。
奈良県五條市の果樹農家の後継者である知也君が、主人より林檎の最終摘果の実務研修を受ける為に来た。最終摘果は1メートルの枝に4個の実を残すのであるが、将来を予測する総合農業技術なので、ボランティアの農作業ではない。知也君は昨年暮れに農業学校研修生であった時に共に4日間農作業をした仲間である。夕食は豚肉の焼肉パーティーであった。オタグリといわれる内臓はコクがあるが、脂はくどくなく美味である。若者の食欲は旺盛で、見ていて痛快である。
地元の無菌豚肉は、つい最近開店した「南信州てんこもり直売所・麻績の里」の商品である。世話になっている農家の主人が会長を務める民間の販売所である。信州善光寺の一光三尊阿弥陀仏の発見者である本多善光卿の元善光寺があるのが、飯田市座光寺「麻績の里・故郷村」である。ハーレーバイク狂の同級生が社長で、同郷の仲間と会社を立ち上げたのであるが、地域の活性化の起爆剤として、試行錯誤の末、発展する予感がする。「てんこもり」は信州の方言で大盛とか大サービス・掛け値なしの奉仕の意味で、会長・社長夫人の発案である。やじ馬的発言であるが、個性のある直売所にするなら、豚肉と野菜の料理のみをメニューにした食堂を目玉にするのも面白いかもしれない。
農家の爺さん・婆さんが栽培した、曲がったキュウリや小ぶりのトマト・不揃いのナス・葉の付いたニンジンはほのぼのとした温かみがあり、工業製品と化した都会のスーパーの野菜とは一味違い自然がある。
都会の子供達に不足しているものは、土・炎そして爺さん・婆さんで有る事を伝え、農園を造り大根の収穫や芋掘り、囲炉裏で薪を燃やすこと、店員は爺さん・婆さんにすることを提案したが、多分却下されるであろう。商売では大冒険は出来ないのである。
直売所の地酒である喜久水酒造の芋焼酎「風太」の酔いも回ってきたので、秋の林檎の色ずく時の葉摘み・玉回しの農作業を夢見ることを期待して、寝ることにする。農業の手伝いは楽しい。おやすみ。
名物の市田柿の、枝の複数の果実を1個にすることで、養分を集中させ大きく成長させる摘果作業である。季節は青春から朱夏に変わる梅雨の時期で、雨降りの日が続く。6月初旬に入梅した東海・甲信越地方の梅雨明けは7月中旬である。曇天・小雨降る環境の柿の摘果は、五月晴れの「降水無しで幸水梨」摘果作業の木漏れ日環境と同様に、風情がある。
市田柿の摘果作業は必要不可欠の農作業ではない。自然に放置した柿は小さく大量に鈴なりになる。秋の収穫に人手が掛かり、皮剥き・乾燥・加工作業に時間が掛かり苦労するが、今の時期は、農閑期となり温泉旅行など人生を謳歌できるのである。
今の時期、額に汗して摘果の労働に励むと、果実が大きく、個数が減り、冬の作業が低減される。しかし大型果実の加工作業は、高度の技術が必要で、経験豊富な熟練の職人の世界である。従って希少価値があり、高値で取引される。
蟻とキリギリスのイソップ寓話で指摘されているが、自己責任で選択する自由は、各農家の心の有様であり、精魂丹精の職人気質は古き良き日本の伝統である。
この時期は雑草の蔓延る季節でもある。平面は自走式乗用草刈機で主人が朝飯前に作業するが、木の周りや土手の斜面は、エンジン式の刈払い草刈機「ビーバー」の私の労働である。
単純作業も工夫しながら続けると、楽しくなる。労働は、命令されて僅かな賃金のために嫌々するのと、自分の天職と思い自主的にする遊びとでは、天国と地獄の差がある。労働が遊びになる「遊戯三昧の心境」は仏様の境地なのだろう。
奈良県五條市の果樹農家の後継者である知也君が、主人より林檎の最終摘果の実務研修を受ける為に来た。最終摘果は1メートルの枝に4個の実を残すのであるが、将来を予測する総合農業技術なので、ボランティアの農作業ではない。知也君は昨年暮れに農業学校研修生であった時に共に4日間農作業をした仲間である。夕食は豚肉の焼肉パーティーであった。オタグリといわれる内臓はコクがあるが、脂はくどくなく美味である。若者の食欲は旺盛で、見ていて痛快である。
地元の無菌豚肉は、つい最近開店した「南信州てんこもり直売所・麻績の里」の商品である。世話になっている農家の主人が会長を務める民間の販売所である。信州善光寺の一光三尊阿弥陀仏の発見者である本多善光卿の元善光寺があるのが、飯田市座光寺「麻績の里・故郷村」である。ハーレーバイク狂の同級生が社長で、同郷の仲間と会社を立ち上げたのであるが、地域の活性化の起爆剤として、試行錯誤の末、発展する予感がする。「てんこもり」は信州の方言で大盛とか大サービス・掛け値なしの奉仕の意味で、会長・社長夫人の発案である。やじ馬的発言であるが、個性のある直売所にするなら、豚肉と野菜の料理のみをメニューにした食堂を目玉にするのも面白いかもしれない。
農家の爺さん・婆さんが栽培した、曲がったキュウリや小ぶりのトマト・不揃いのナス・葉の付いたニンジンはほのぼのとした温かみがあり、工業製品と化した都会のスーパーの野菜とは一味違い自然がある。
都会の子供達に不足しているものは、土・炎そして爺さん・婆さんで有る事を伝え、農園を造り大根の収穫や芋掘り、囲炉裏で薪を燃やすこと、店員は爺さん・婆さんにすることを提案したが、多分却下されるであろう。商売では大冒険は出来ないのである。
直売所の地酒である喜久水酒造の芋焼酎「風太」の酔いも回ってきたので、秋の林檎の色ずく時の葉摘み・玉回しの農作業を夢見ることを期待して、寝ることにする。農業の手伝いは楽しい。おやすみ。