岐阜県美濃加茂に妙法山・正眼寺という臨済宗妙心寺派の禅寺があり、住職は山川 宗玄老師である。NHK「心の時代」を見て知り、調べた結果お寺に付属する正眼短期大学でお話を聞く機会が出来た。
老師の立ち居振る舞い、好相、言葉の響き、場の雰囲気から感動を頂いた。文字はいらない。しかし文字が無いと伝えられないので、岐阜新聞の記事を転記するが、真に老師の教えを知るためには、各人が足を運び直接感じ取る事が大事だ。
文字で伝えられることは僅かである。そして正しい教えを何度も聞き、眼・耳だけでなく、全身全霊で受け止めなければならない。正聞薫習という。
「入門したての頃、寺を去ろうと随分悩んだ。腰痛を抱えており座禅が一番きつく、長い距離を歩く托鉢、作務と呼ばれる労働は余計にこたえる。雲水は深夜座禅をする。新米は先輩が終わるまで引き揚げてはいけない。睡眠時間は2時間余り。
さすがにまいってきて、バタっと倒れ、担架に乗って寺を去ることを考えた。そうなればあの雲水は一所懸命やったが、運がなかったと一応は認めてもらえる。それからは早く倒れるために、睡眠時間を減らし座禅や托鉢、作務に精を出した。
しかしなかなか倒れない。やり方が拙いのではないかと思い、より厳しい修行を自分に課したが、それでも倒れない。
万策尽きたある夜、座禅を終えて禅堂に戻る時、午前一時を知らせる柱時計の音が聞こえてきた。いつもなら「今日は二時間しか寝られない」とつい愚痴るのだが、その日は「ああ、今日は二時間も寝させて頂ける」と思った瞬間涙が止めどなく流れた。そして、自分は生かされていることに気付いた。なぜ倒れなかったのか、その理由も一気に理解できた。悟ったとはいえないが、それらしいものを手に入れたと感じた。そのことは私の一生の財産である」
「しか」の言葉からは不平不満が、「も」の言葉からは感謝の気持ちが感じ取れる。我利我利亡者から忘己利他に変わった瞬間が、言葉の変わった時なのだろうか。言葉の違いは僅かであるが、人間の質の変換は劇的である。苦しみと格闘した後には、素晴らしい喜びがあるようである。
老師の立ち居振る舞い、好相、言葉の響き、場の雰囲気から感動を頂いた。文字はいらない。しかし文字が無いと伝えられないので、岐阜新聞の記事を転記するが、真に老師の教えを知るためには、各人が足を運び直接感じ取る事が大事だ。
文字で伝えられることは僅かである。そして正しい教えを何度も聞き、眼・耳だけでなく、全身全霊で受け止めなければならない。正聞薫習という。
「入門したての頃、寺を去ろうと随分悩んだ。腰痛を抱えており座禅が一番きつく、長い距離を歩く托鉢、作務と呼ばれる労働は余計にこたえる。雲水は深夜座禅をする。新米は先輩が終わるまで引き揚げてはいけない。睡眠時間は2時間余り。
さすがにまいってきて、バタっと倒れ、担架に乗って寺を去ることを考えた。そうなればあの雲水は一所懸命やったが、運がなかったと一応は認めてもらえる。それからは早く倒れるために、睡眠時間を減らし座禅や托鉢、作務に精を出した。
しかしなかなか倒れない。やり方が拙いのではないかと思い、より厳しい修行を自分に課したが、それでも倒れない。
万策尽きたある夜、座禅を終えて禅堂に戻る時、午前一時を知らせる柱時計の音が聞こえてきた。いつもなら「今日は二時間しか寝られない」とつい愚痴るのだが、その日は「ああ、今日は二時間も寝させて頂ける」と思った瞬間涙が止めどなく流れた。そして、自分は生かされていることに気付いた。なぜ倒れなかったのか、その理由も一気に理解できた。悟ったとはいえないが、それらしいものを手に入れたと感じた。そのことは私の一生の財産である」
「しか」の言葉からは不平不満が、「も」の言葉からは感謝の気持ちが感じ取れる。我利我利亡者から忘己利他に変わった瞬間が、言葉の変わった時なのだろうか。言葉の違いは僅かであるが、人間の質の変換は劇的である。苦しみと格闘した後には、素晴らしい喜びがあるようである。