北宋の時代に五祖山に住んでいた東山法演和尚が言った。「釈迦弥勒は猶お是れ他が奴。且らく道え、他は是れ阿誰そ(しゃかみろくはなおこれたがぬ。しばらくいえ、たはこれあたそ)」
英訳はTo Tozan, Master Hoen the Fifth Patriarch said, "Shakyamuni and Maitreya Boddhisattva, both are His slaves. Well, tell me: Who is He?"
その意味は「釈迦や弥勒菩薩のような立派な方も、彼の奴隷だ。さて言ってみよ。彼とは誰なのか」これは禅の公案である。お寺で修行する時に、住職から与えられるテーマの一つのようである。文章は簡単であるが、考え出したらきりが無い。
中国の禅僧である無門和尚が「無門関」という禅の手引き書を編集した。過去の禅僧の言葉を選択して、自身の解釈を付け加え、48則とした。その45番目である。この他をしっかり見届けたならば、例えば街の雑踏の中で親爺に出会ったようなもので、側にいる人に向かって「あれは私の親爺ですか、あるいは人違いでしょうか」などと聞く必要はあるまい。
他=彼とは誰のことを言っているのか。何のことを言っているのか。私の目で釈迦や弥勒菩薩の仏像を見たことがあるが、他人が教えてくれて、知ったのである。私が創作したら別の像になったかもしれない。鰯の頭も信心で仏になる。樹の根っ子を磨けば、床の間の宝物になる。信心で私が釈迦や弥勒菩薩の存在を認めている。
立派にするのも奴隷にするのも私の信心である。信心が無ければ物である仏像は存在しない。信心とは何。目で物を見れるが、目で目は見えない。目が信心なのか。釈迦や弥勒は想像する信心が作り上げたものの様である。物を物たらしめているのは信心で、信心は物でないようである。他=彼=信心とは誰なのか。何なのか分からない。心のある人間は難しい。
外国の哲学者は言っている「人間とは神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか」
一休さんが道歌で言っている「誰そ(たそ)という言葉の下にあらわれて、誰そ(たそ)こそ誰(だれ)よ誰そ(たそ)は誰(だれ)なれ」
難解な研究は禅僧に任せて、暇な時にその解釈を聞かせて頂き、私の普段は果樹園の手伝いに精を出そうかと思っている。
英訳はTo Tozan, Master Hoen the Fifth Patriarch said, "Shakyamuni and Maitreya Boddhisattva, both are His slaves. Well, tell me: Who is He?"
その意味は「釈迦や弥勒菩薩のような立派な方も、彼の奴隷だ。さて言ってみよ。彼とは誰なのか」これは禅の公案である。お寺で修行する時に、住職から与えられるテーマの一つのようである。文章は簡単であるが、考え出したらきりが無い。
中国の禅僧である無門和尚が「無門関」という禅の手引き書を編集した。過去の禅僧の言葉を選択して、自身の解釈を付け加え、48則とした。その45番目である。この他をしっかり見届けたならば、例えば街の雑踏の中で親爺に出会ったようなもので、側にいる人に向かって「あれは私の親爺ですか、あるいは人違いでしょうか」などと聞く必要はあるまい。
他=彼とは誰のことを言っているのか。何のことを言っているのか。私の目で釈迦や弥勒菩薩の仏像を見たことがあるが、他人が教えてくれて、知ったのである。私が創作したら別の像になったかもしれない。鰯の頭も信心で仏になる。樹の根っ子を磨けば、床の間の宝物になる。信心で私が釈迦や弥勒菩薩の存在を認めている。
立派にするのも奴隷にするのも私の信心である。信心が無ければ物である仏像は存在しない。信心とは何。目で物を見れるが、目で目は見えない。目が信心なのか。釈迦や弥勒は想像する信心が作り上げたものの様である。物を物たらしめているのは信心で、信心は物でないようである。他=彼=信心とは誰なのか。何なのか分からない。心のある人間は難しい。
外国の哲学者は言っている「人間とは神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか」
一休さんが道歌で言っている「誰そ(たそ)という言葉の下にあらわれて、誰そ(たそ)こそ誰(だれ)よ誰そ(たそ)は誰(だれ)なれ」
難解な研究は禅僧に任せて、暇な時にその解釈を聞かせて頂き、私の普段は果樹園の手伝いに精を出そうかと思っている。