仕事の都合上、4時間程の仮眠時間が有り、下着で寝床に横になり、就寝する。仲間に裏返しで有る事を指摘され、笑われた。縫い目が外側だったのである。恥をかいた。
冷静に考えてみたら、下着の表裏はあるのだろうか。メーカーのマークは縫い目の無い側に印刷してあるから、縫い目が裏側なのだろう。直接縫い目が肌に触れ、着心地が悪い。機能本位で考えたら、縫い目のある側が外側である。だから私の着用の仕方が正しいのである。通常下着の上に重ねて衣服を着るので、人目に触れて見苦しいことは無い。奇妙な習慣である。その事を主張すれば、逆に尊敬されるチャンスだった。女性の下着は男性の目を楽しませる効用があるので、外側が美しいほうが良い。男の身勝手である。
そもそも衣服は防寒防身が目的で、人が着ているのであるが、物が豊かになった最近は変質してきている。着物が動いていて個人の人間性が見えない。マネキン人形が動いているようである。一休さんの説話のモデルとして知られる一休 宗純(いっきゅう そうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧であるが、衣服についての話がある。
「一休も破れ衣で出るときは、乞食坊主と人は言うらん」
富豪の家の法事を頼まれた一休禅師は、ぼろぼろのつぎはぎだらけの着物で訪れると、玄関で「乞食坊主を頼んだ覚えは無い」と言われ追い返された。寺に戻り豪華絢爛の袈裟衣に着替え、再度富豪の家を訪れると今度は丁重な応対で仏間に案内され、法事を済ませたのである。供養の食事になると、豪華絢爛の袈裟衣を座布団の上に置き、禅師は食事をしないで、寺に戻ったのである。一休禅師が言いたいのは、法事は人がするのであり、着物がするのではない。見栄や体裁の外面的なものに騙されるのではなく、関係ある人の触れ合いの内面的な心を重視する事の大切さを言っているのである。富豪は衣という物に目が奪われて、人の心を見ていなかったのである。
人と着物が渾然一体となっていることが、自然である。ダイヤモンドの指輪をジルコンであると言われる人もあるし、ジルコンをダイヤモンドと言われる人もある。着物を着た人の人間性が重要で、粗末な着物も輝くのである。着物に金を掛け過ぎないで、心を磨く心掛けが注目されていい。
「衣より袈裟より俗の古襦袢、おのが器量で着るぞ尊き」
冷静に考えてみたら、下着の表裏はあるのだろうか。メーカーのマークは縫い目の無い側に印刷してあるから、縫い目が裏側なのだろう。直接縫い目が肌に触れ、着心地が悪い。機能本位で考えたら、縫い目のある側が外側である。だから私の着用の仕方が正しいのである。通常下着の上に重ねて衣服を着るので、人目に触れて見苦しいことは無い。奇妙な習慣である。その事を主張すれば、逆に尊敬されるチャンスだった。女性の下着は男性の目を楽しませる効用があるので、外側が美しいほうが良い。男の身勝手である。
そもそも衣服は防寒防身が目的で、人が着ているのであるが、物が豊かになった最近は変質してきている。着物が動いていて個人の人間性が見えない。マネキン人形が動いているようである。一休さんの説話のモデルとして知られる一休 宗純(いっきゅう そうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧であるが、衣服についての話がある。
「一休も破れ衣で出るときは、乞食坊主と人は言うらん」
富豪の家の法事を頼まれた一休禅師は、ぼろぼろのつぎはぎだらけの着物で訪れると、玄関で「乞食坊主を頼んだ覚えは無い」と言われ追い返された。寺に戻り豪華絢爛の袈裟衣に着替え、再度富豪の家を訪れると今度は丁重な応対で仏間に案内され、法事を済ませたのである。供養の食事になると、豪華絢爛の袈裟衣を座布団の上に置き、禅師は食事をしないで、寺に戻ったのである。一休禅師が言いたいのは、法事は人がするのであり、着物がするのではない。見栄や体裁の外面的なものに騙されるのではなく、関係ある人の触れ合いの内面的な心を重視する事の大切さを言っているのである。富豪は衣という物に目が奪われて、人の心を見ていなかったのである。
人と着物が渾然一体となっていることが、自然である。ダイヤモンドの指輪をジルコンであると言われる人もあるし、ジルコンをダイヤモンドと言われる人もある。着物を着た人の人間性が重要で、粗末な着物も輝くのである。着物に金を掛け過ぎないで、心を磨く心掛けが注目されていい。
「衣より袈裟より俗の古襦袢、おのが器量で着るぞ尊き」