正月に東の初日の出を拝む人がいる。温泉宿の露天風呂から西の夕陽を見て感傷に浸る人がいる。昼間は農作業に没頭して太陽には関心を示さない。夜明け・日没の際の太陽に関心が集まる。人々はその瞬間に神仏を思うのだろう。
朝日は神様が、夕陽は仏様が似合う。人は朝日に誕生・希望・誓いを、夕陽には死・反省・感謝などを思い祈るのだろう。子供の誕生には神社で祈祷し、葬式はお寺にお願いする日本人の習慣と一致する。鉄道なら朝が始発駅で、夜が終着駅であるが、演歌「終着駅は始発駅」の詩の世界では自然には始めも終りも無く連続しているアナログ世界と思っているが、真実は瞬間・刹那のデジタルなのだ。
人生も刹那の繰り返しである。テレビ映像がRGBの点滅で出来ているのと同じで、何も無いのかもしれない。人間の眼が残像で映像を造り、繋げてしまう。刹那を連続的に思うのが人間なのだ。眼による錯覚である。そして人間の口と耳による言葉による錯覚がある。言葉に騙されてはならないが、言葉がないと動植物と変わらない。錯覚があるから人生は楽しい。いや錯覚を積極的に利用して楽しくしないと面白くない。錯覚を利用して人を騙してはいけないが、手品で騙されると愉快なのは何故なのだろう。錯覚夢想するのが人間の本性かもしれない。
その他舌による味覚、体による触覚、鼻による嗅覚と心の意識・マナ識・阿頼耶識があると唯識仏教ではいう。眼耳鼻舌身の五感と心の三識が人間を万物の霊長としている。人の心の深層であるマナ識・阿頼耶識の可能性は無限であるから、その管理が大切である。マナ識は自意識で阿頼耶識は人間本能である。良心と悪心がある。悪心を退治する方法の一つが、禅である。自分が無くなり、生死を超越したら、良心と悪心が同じになる。
人間が畏敬の念を持つ対象は、自然環境でその根本は太陽である。欲望の集合体である人間の弱さが太陽を拝むのであり、太陽と一体になった人は拝むことは無い。唯一方的に光を放ち、その光が万物の活動の源になり、拝まれる。座禅止観による私の悟りである。
仏教では、東方に薬師如来の浄瑠璃世界があり、西方には阿弥陀如来の極楽浄土があるという。天動説ならば地球は静止していて太陽は東から来て、西に行ってしまう。ガリレオによれば太陽が静止していて地球が西から東に行くのか。どちらでも構わない。とにかく太陽は東から西に移動して、夜のうちに東に回送されて夜明けには東にいる。言葉の錯覚で、東西があると思ってしまうか、西に向かって歩いたら、今まで西だったところは東になってしまう。阿弥陀如来の極楽浄土を目指して歩き続けても、極楽浄土に到達できない。チルチルミチルの幸せの青い鳥ではないけれども、近くに有るのである。極楽浄土を目指して歩き続けることが、生きると言うことで、心に極楽浄土が見えた時が、死ぬ時で、私が阿弥陀様だった。
昼間の太陽は密教の大日如来で現世利益である。利益はリエキでなくリヤクと読むと仏教的になる。高野山の弘法大師空海の世界である。空海は理科系の実業家タイプだ。文科系のお坊さんなら、比叡山の伝教大師最澄である。弟子から浄土教の法然・親鸞、禅の道元・栄西、法華経の日蓮。そして相応和尚の修験道がある。延暦寺は仏教の総合大学なのだ。聖徳太子が奈良に都市仏教を根付かせたが、権力闘争の道具となり堕落したので、平安時代の桓武天皇の代に空海・最澄によって山に仏教のお寺が出来たのである。それ以来お寺に山号が付くようになった。比叡山延暦寺・高野山金剛峰寺・成田山新勝寺・吉祥山永平寺・正法山妙心寺など。空海は山に育ち、京都で活動して山に帰った。最澄は琵琶湖で育ち、山を基地に活動した。推古天皇の代である奈良時代のお寺には山号がない。法隆寺・信州善光寺・浅草浅草寺などである。東大寺の腐敗に決別した比叡山延暦寺も長い間に堕落して、鎌倉時代に弟子たちが分派独立した。歴史は繰り返すのだ。
老齢になると、夕陽・落日・日没そして夕焼けを観て瞑想し感傷に埋没するが、やはりその瞬間、死を思っているのである。そして心が癒され、落ち着くのである。自然の成り行きであるし、人間的な行為なのである。山田洋次監督の「男はつらいよ」「釣り馬鹿日誌」に必ず夕陽の場面があるが、死を前提とした人間模様が共感を得、涙を誘うのである。日本人は、太陽を信仰する農耕民族で、狩猟民族の欧米型の工業・商業は似合わない。しかし今の物質的な繁栄は欧米型であるが、反面心は荒んでいる様に思う。
もの=金と心のバランスを考えないといけない。偏ってはいけない。右左の真中・中道を歩まなくてはと考える。弥次郎兵衛のように。その語源は東海道膝栗毛の栃面屋弥次郎兵衛・喜多さんで、水戸黄門の助さん格さんなのだろう。漫才のボケ役とツッコミ役のバランスがヤジロベイである。
天然自然や動植物は語らないので解からないが、象が決まった自分の墓場で死ぬのだから、死を意識しているのかもしれない。しかし象が病院で死んだ話は聞かない。
朝日は神様が、夕陽は仏様が似合う。人は朝日に誕生・希望・誓いを、夕陽には死・反省・感謝などを思い祈るのだろう。子供の誕生には神社で祈祷し、葬式はお寺にお願いする日本人の習慣と一致する。鉄道なら朝が始発駅で、夜が終着駅であるが、演歌「終着駅は始発駅」の詩の世界では自然には始めも終りも無く連続しているアナログ世界と思っているが、真実は瞬間・刹那のデジタルなのだ。
人生も刹那の繰り返しである。テレビ映像がRGBの点滅で出来ているのと同じで、何も無いのかもしれない。人間の眼が残像で映像を造り、繋げてしまう。刹那を連続的に思うのが人間なのだ。眼による錯覚である。そして人間の口と耳による言葉による錯覚がある。言葉に騙されてはならないが、言葉がないと動植物と変わらない。錯覚があるから人生は楽しい。いや錯覚を積極的に利用して楽しくしないと面白くない。錯覚を利用して人を騙してはいけないが、手品で騙されると愉快なのは何故なのだろう。錯覚夢想するのが人間の本性かもしれない。
その他舌による味覚、体による触覚、鼻による嗅覚と心の意識・マナ識・阿頼耶識があると唯識仏教ではいう。眼耳鼻舌身の五感と心の三識が人間を万物の霊長としている。人の心の深層であるマナ識・阿頼耶識の可能性は無限であるから、その管理が大切である。マナ識は自意識で阿頼耶識は人間本能である。良心と悪心がある。悪心を退治する方法の一つが、禅である。自分が無くなり、生死を超越したら、良心と悪心が同じになる。
人間が畏敬の念を持つ対象は、自然環境でその根本は太陽である。欲望の集合体である人間の弱さが太陽を拝むのであり、太陽と一体になった人は拝むことは無い。唯一方的に光を放ち、その光が万物の活動の源になり、拝まれる。座禅止観による私の悟りである。
仏教では、東方に薬師如来の浄瑠璃世界があり、西方には阿弥陀如来の極楽浄土があるという。天動説ならば地球は静止していて太陽は東から来て、西に行ってしまう。ガリレオによれば太陽が静止していて地球が西から東に行くのか。どちらでも構わない。とにかく太陽は東から西に移動して、夜のうちに東に回送されて夜明けには東にいる。言葉の錯覚で、東西があると思ってしまうか、西に向かって歩いたら、今まで西だったところは東になってしまう。阿弥陀如来の極楽浄土を目指して歩き続けても、極楽浄土に到達できない。チルチルミチルの幸せの青い鳥ではないけれども、近くに有るのである。極楽浄土を目指して歩き続けることが、生きると言うことで、心に極楽浄土が見えた時が、死ぬ時で、私が阿弥陀様だった。
昼間の太陽は密教の大日如来で現世利益である。利益はリエキでなくリヤクと読むと仏教的になる。高野山の弘法大師空海の世界である。空海は理科系の実業家タイプだ。文科系のお坊さんなら、比叡山の伝教大師最澄である。弟子から浄土教の法然・親鸞、禅の道元・栄西、法華経の日蓮。そして相応和尚の修験道がある。延暦寺は仏教の総合大学なのだ。聖徳太子が奈良に都市仏教を根付かせたが、権力闘争の道具となり堕落したので、平安時代の桓武天皇の代に空海・最澄によって山に仏教のお寺が出来たのである。それ以来お寺に山号が付くようになった。比叡山延暦寺・高野山金剛峰寺・成田山新勝寺・吉祥山永平寺・正法山妙心寺など。空海は山に育ち、京都で活動して山に帰った。最澄は琵琶湖で育ち、山を基地に活動した。推古天皇の代である奈良時代のお寺には山号がない。法隆寺・信州善光寺・浅草浅草寺などである。東大寺の腐敗に決別した比叡山延暦寺も長い間に堕落して、鎌倉時代に弟子たちが分派独立した。歴史は繰り返すのだ。
老齢になると、夕陽・落日・日没そして夕焼けを観て瞑想し感傷に埋没するが、やはりその瞬間、死を思っているのである。そして心が癒され、落ち着くのである。自然の成り行きであるし、人間的な行為なのである。山田洋次監督の「男はつらいよ」「釣り馬鹿日誌」に必ず夕陽の場面があるが、死を前提とした人間模様が共感を得、涙を誘うのである。日本人は、太陽を信仰する農耕民族で、狩猟民族の欧米型の工業・商業は似合わない。しかし今の物質的な繁栄は欧米型であるが、反面心は荒んでいる様に思う。
もの=金と心のバランスを考えないといけない。偏ってはいけない。右左の真中・中道を歩まなくてはと考える。弥次郎兵衛のように。その語源は東海道膝栗毛の栃面屋弥次郎兵衛・喜多さんで、水戸黄門の助さん格さんなのだろう。漫才のボケ役とツッコミ役のバランスがヤジロベイである。
天然自然や動植物は語らないので解からないが、象が決まった自分の墓場で死ぬのだから、死を意識しているのかもしれない。しかし象が病院で死んだ話は聞かない。