美濃加茂の正眼寺の山川宗玄師の臨済録「行録(あんろく)」の提唱を聞いた。
中国唐代の禅の高僧である金牛和尚と臨済和尚の行動記録を、潙山和尚と仰山和尚が評価するという話である。
寺に臨済が来る事を聞いた金牛は、門に杖を横にして足を投げ出して座り、通行止めにする。臨済和尚が杖をノックすると、金牛は驚いて杖を下げた。臨済は杖を跨いで、禅堂に向かい上座に座る。金牛が追いかけてきて、他人の寺に挨拶も無く入り、上席に座るとは無礼であると言うと、臨済和尚は聞こえなかった振りをして、手を耳に添えて、「はあー」と言った。金牛和尚が更に言おうとすると、臨済が金牛の頬を叩いた。金牛は大げさに倒れて、更に言おうとすると臨済は再度叩いた。金牛は「今日はしくじってしまった」と言った。
潙山が仰山に問うた。「このお二人の禅師の勝負は有ったのだろうか」答えて仰山が言う「勝つ時は徹底的に勝たないといけないし、負けるなら再起不能までいかないといけない」
偉いお坊さん同士の行動であるから、何か教訓が隠されていると思い、自分の内面に向かい問いかけると、禅の公案となるのである。
山川宗玄禅師は、それぞれの和尚の来歴や時代・場所を紹介解説し、癌を例にして一つの解釈を提示した。癌を退治するために、切除したり、放射線で破壊したりする。一時的には癌は無くなるが、転移し、再度手術しないとならない。その繰り返しで最期には、癌には勝ったとしても、人も死んでしまう。完全に勝つことは不可能である。ならば癌に負けた振りをして、仲良くすることである。折り合いをつけることである。人は遅かれ早かれ死んでいく運命なのである。このように読むことが、禅的発想なのだろう。
人生には、「もしあの時、別の行動をしてたら、してれば」という「たら・れば」の反省があるが、遅いのである。「たら」は北海道だし「れば」は焼肉屋である。この話を知っていたら、人生変わったかもしれない。先人の古い話から教訓を学び取ることは、カオスの時代の今では新しい考えのように見える。温故知新である。過激にならず、消極的にならず、穏便な行動の大切さが見える。修行を積んだ禅僧から、静かな環境のお寺で聞くから理解できるのである。
以前に、宗玄禅師より徹底的に勝たなければいけないと言う話を聞いたことがある。正反対の話である。禅僧は一筋縄ではいかない。変幻自在である。他人と自分の関係はほどほどでよいが、自分と自分の関係は妥協が許されない。ところで自分とは何なのだろうか。自分は誰なのですか?
不識。